柳川組結成
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1958年2月、既に先に出所して柳川一派を形成していた柳川次郎と合流した谷川は釜ヶ崎のシノギを巡って鬼頭組(約100人)との抗争を主導し、これを8人で破って勢力を拡大した。関西の極道たちは、この闘争の勝者柳川グループを“殺しの柳川”と呼んだ。4月、大阪市北区堂山町の堂山ビルに「柳川興行」が設立され、11月柳川次郎が保釈されると柳川組を結成して自らは副組長となった。 柳川組は大阪で多数の抗争を繰り返し、勢力を広げていたため、当時山口組(組長田岡一雄)の若頭であった地道行雄に目を付けられたことが縁で、1959年10月柳川次郎は地道の杯を受けて舎弟となった。1960年10月、柳川次郎は田岡一雄から杯をもらって、直系の若衆に加わった。山口組の配下に入った柳川組では明友会事件等で主導的な役割を果たしたため柳川組は急速に膨張した。
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