柳川組二代目就任と解散
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「谷川康太郎」の記事における「柳川組二代目就任と解散」の解説
1963年10月、先の鬼頭組との抗争事件の最高裁判決の迫った柳川次郎は隠退を表明、副組長だった谷川が二代目を継ぐことになり、その襲名披露が有馬温泉の「満月城」で行なわれた。組は驚異的な速度で膨らんでいった。しかし、柳川組は折から展開される警察の第一次頂上作戦の集中取締りの標的にされ、逮捕者を多数出すことで、弱体化し、会長の柳川次郎は解散を決意した。谷川は「今のわしの親分は田岡の親分や」と反対した。1967年12月、谷川は、布施市の諏訪組との抗争事件で懲役2年8月の刑が確定、大阪刑務所に収監される。組の大幹部も続々と服役した。1969年4月9日、獄中にあった谷川は、先代の柳川次郎と合意のうえ、ついに柳川組解散を宣言した。柳川組を解散した後は、実業家に転身し活躍したが、1987年に死去した。 ウィキクォートに谷川康太郎の発言録があります。
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