松谷秀幸とは? わかりやすく解説

松谷秀幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/07 16:23 UTC 版)

松谷 秀幸
Hideyuki Matsutani
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1982-10-16) 1982年10月16日(42歳)
出身地 大阪府大阪市鶴見区
身長 181cm
体重 87kg
選手情報
登録番号 014524
所属 日本競輪選手会神奈川支部
ホーム 川崎競輪場
期別 96期
脚質 追込
登録地
2009- 神奈川
選手情報 KEIRIN.JP
  テンプレートを表示
松谷 秀幸
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市鶴見区
生年月日 (1982-10-16) 1982年10月16日(42歳)
身長
体重
181 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト3位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

松谷 秀幸(まつたに ひでゆき、1982年10月16日 - )は、大阪府大阪市鶴見区出身の競輪選手、元プロ野球選手投手)。

競輪選手としては日本競輪選手会神奈川支部所属、ホームバンクは川崎競輪場日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第96期生。

来歴・人物

野球選手時代

母子家庭で育ったこともあり、費用面から特待生の制度を受けないと進学できなかったため、地元の強豪校は諦め沖縄県にある興南高校に入学。同校では2年からエースを務め、県大会準優勝。最速149km/hの速球とカーブのコンビネーションで、3年夏の大会では初戦を完封するなどの活躍を見せたが3回戦で敗退し、甲子園出場はならなかった。社会人野球日立製作所硬式野球部から声が掛かっていたこともあり社会人に進むつもりでいたが、2000年ドラフト3位でヤクルトスワローズから指名を受けたことで、入団を決意[1]。高校の1学年下の後輩に上原厚治郎がおり、社会人を経由して2004年ドラフトで指名された上原と、再び同じチームで野球をしている。

プロ入り1年目の2001年には、高卒ルーキーでありながらファームで15試合に登板し、先発も経験。綺麗なフォームから伸びのある速球を投じ、次代のエース候補として長く期待を受ける存在であった。しかし6年間でを3回手術するなど怪我に泣くことになる。2003年2004年はほぼリハビリに費やすこととなったが、地道な努力により克服。

2005年には自己最多の34試合に登板し、2006年も飛躍が期待されていたが、再び故障を発症。一軍登板がないまま同年オフに戦力外通告を受けた。

競輪選手時代

プロ野球球団を退団後は高速道路や道路工事の現場でアルバイトを経験[2]、その後はスワローズからの紹介で千葉中央ヤクルト販売株式会社に就職、一時期はサラリーマン生活を送る。だが、サラリーマン生活が肌に合わないと感じたこと、通勤電車の車内吊り広告で競輪学校が年齢制限を撤廃したことを知り、プロ野球選手時代からパワーマックスをトレーニングに取り入れていたこともあって、家族に了承を得た上で2007年11月、競輪学校第96回生徒入学試験を受験[2][注釈 1][注釈 2]

親交のあった、当時横浜ベイスターズ投手コーチであった野村弘樹を頼り、当時競輪選手の佐々木龍也を紹介され弟子入り。ただ、その時点では願書提出後であり受験まで2か月しかない中であったため佐々木からは呆れられたというが、師匠のもとで仕事を続けながらパワーマックスでひたすらトレーニングに励んだことで、2008年1月に合格が発表され、再びプロスポーツの世界に足を踏み入れることとなった[2]。競輪学校の同期には、自転車競技経験者では深谷知広雨谷一樹守澤太志などのちトップレーサーとして活躍した者や、他にもアイスホッケーU20日本代表経験者の杉本正隆などもおり、その中での在校競走成績は9勝で17位だった。

2009年5月1日付けで選手登録され、同年7月4日松戸FIIでデビュー。デビュー戦で初勝利を挙げた。

2010年2月10日川崎FIIで初優勝。

2011年6月13日レインボーカップA級ファイナル(函館)で3着となり、S級に特別昇級。

2013年6月9日小田原競輪場で行われた、「花月園メモリアルin小田原」(GIII)で優勝。元プロ野球選手の競輪選手がGIIIを制したのはこれが初めてであった[3]。同年のオールスター競輪でGI初出場。

2017年9月19日武雄競輪場で行われた第33回共同通信社杯競輪GIIの決勝に出走。

2019年は6つある全てのGIで出場選手として選出されており、2021年からはGIの連続出場を続けている(2025年4月現在・継続中)。

2024年は、2月の第39回読売新聞社杯全日本選抜競輪で準決勝3着となり、元プロ野球選手の競輪選手として初のGIレース決勝戦進出を果たした(5着)。さらに11月の第66回朝日新聞社杯競輪祭でもGI決勝戦進出するなどし、同年は賞金ランキングで自身最高位となる20位につけた(獲得賞金額6136万2200円)[4]

詳細情報

年度別投手成績

  • 一軍公式戦出場なし

背番号

  • 48 (2001年 - 2002年)
  • 68 (2003年 - 2006年)

関連情報

関連書籍

脚注

注釈

  1. ^ 競輪学校で2006年から導入された、適性試験のうち「他競技において優秀な成績を収めた者」を対象にした特別枠で受験し、一次試験が免除された。
  2. ^ 同じ第96回入試では、同じく元プロ野球選手であった元広島東洋カープ兵動秀治も受験した。なお、兵動はNPB球団を退団してから年数が経過していたため特別枠では受験できず、一次試験から受験するも二次試験で不合格となった。ただ、兵動は翌2008年の第97回入学試験に合格し、松谷から半年遅れて競輪選手としてデビューした。

出典


関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松谷秀幸」の関連用語



3
第1次試験実技のみ。願書提出の際には、以下にある技能試験または適性試験のいずれか1つを選択する。技能試験 - 主に自転車競技経験者が対象。自転車によるスタンディングスタートでの1000m走行時間/500m走行時間、および400mフライングスタートからの200m走行時間を、男子は小倉競輪場にて、女子は養成所にて、それぞれ計測する。男女とも、技能試験において使用できる自転車であるか等を確認するため、受験日前日に前日検査を受ける必要があり、前日検査を受けなかった者は受験できないことになっている。男子は、1000m走行時間は1分10秒が一般的に合否のボーダーラインと言われている。参考に、119期生入所試験1次試験における1000m走行時間の平均は1分09秒83、200m走行時間タイムの平均は11秒45であった。また、競輪選手資格検定における合格ラインは、1000m走行時間が1分15秒以内、200m走行時間が12秒8以内とされている。女子は、参考に、120期生入所試験1次試験における500m走行時間の平均は38秒99、200m走行時間の平均は12秒99であった。また、競輪選手資格検定における合格ラインは、500m走行時間が42秒以内、200m走行時間が14秒0以内とされている。適性試験 - 自転車競技未経験者が対象。垂直跳びの跳躍高と、背筋力計による背筋力、長座体前屈による柔軟性を、養成所で計測。「団体競技も含む他競技において優秀な成績を収めた者」においては、第1次試験の免除を申請することができる。この制度を利用し、元プロ野球選手の松谷秀幸、元プロスノーボーダーの猪頭香緒里らが旧競輪学校に合格し、のち競輪選手として活躍した。旧競輪学校時代には、この規定を周知させるため、プロ野球トライアウト会場にブースを設営しトライアウト参加者に入学願書を配布するなど、より優秀な選手を獲得しようとスカウト活動にも取り組んだこともあった。第2次試験
14% |||||


5
10% |||||





10
8% |||||

松谷秀幸のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松谷秀幸のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松谷秀幸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS