松永久秀とは? わかりやすく解説

松永久秀

(松永弾正 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 07:44 UTC 版)

松永 久秀(まつなが ひさひで、永正5年〈1508年〉- 天正5年10月10日1577年11月19日〉)は、戦国時代安土桃山時代武将大和国戦国大名である。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通


注釈

  1. ^ 天守に火をかけた後、 『信長公記』『大かうさまくんきのうち』では焼死、『兼見卿記』『多聞院日記』『川角太閤記』では切腹したとしている。
  2. ^ 川角太閤記』では切腹後に首と「古天明平蜘蛛」を火薬で処理するよう命じた。「言葉しも相たがわず、頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり」
  3. ^ 道三も西岡出身で、天文年間に守護代から土岐氏を乗っ取ったという道三の経歴は、久秀の食指を動かしたに違いない、と、長江正一は指摘している[10]
  4. ^ 光秀に惟任、長秀に惟住、簗田広正に戸次(別喜)、塙直政に原田の姓をそれぞれ名乗らせている[23]
  5. ^ 同様の抜擢者は、野間長久、鳥養貞長松山重治を挙げている[26]
  6. ^ 言継卿記』では「内者弾正忠」と記され、『天文日記』では本願寺第10世法主証如が久秀の存在を認めていた旨が記されている[28]
  7. ^ 「御成」で家臣の邸宅に主君が行き歓待されることで主従関係の良好さと、主君に絶対の信頼されていることを世間に示す[34]
  8. ^ もっとも、義輝のその内心を裏付ける記録もないため、あくまで一説に過ぎない[40]
  9. ^ 歴史学者の田中信司は、松永久秀の御供衆としての立場は、形式だけの名誉職ではない、幕臣としての相応の実体を伴うものであったと指摘している[50][51]
  10. ^ 義興に関しては久秀の毒殺説もあるが(『 足利季世記』)、一方で当時の史料である『続応仁後記』では「雑説」として否定されている[55]
  11. ^ 冬康の死に関しては、久秀が病で半ば狂乱していた長慶に讒言して殺害に追い込んだとする説がある[57]
  12. ^ なお、甲斐武田氏と松永氏の外交は元亀4年(1537年)段階で確認され、武田氏では親族衆の一条信龍取次を務めており、大和国衆の岡氏を通じて交渉が行われている。
  13. ^ 『雑々聞撿書丁巳歳』(内閣文庫架蔵写本)による。この栄典及び翌日の昇叙によって、松永は三好長慶や三好義長に次ぐ三好家中において重要な地位に昇ったといえる。
  14. ^ 『雑々聞撿書丁巳歳』によれば、永禄4年1月28日付で正五位下から従四位下に昇叙しているが、このとき、氏は藤原として口宣案が出されている。ところが、将軍家の御紋下賜により氏を改め、再度、同年2月4日付では源の氏として口宣案が出された。
  15. ^ 父親に武家を継がないのなら摂津の領主の一族である入江の姓でなく祖母実家の松永姓を名乗るよう遺言されて、それを守り、松永姓となった[94]
  16. ^ 信長家臣の林通勝(林秀貞)とは別人。
  17. ^ 藩翰譜』には松永久秀による本多正信の人物評が記載されるが、久秀に仕えたかどうかは不明とされている[103]

出典

  1. ^ a b 天野(編)2017, pp. 8, 25. 『多聞院日記』永禄11年(1568年)2月19日条に「当年六十一歳」と記されていることに基づく。
  2. ^ 松永久秀』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e f 天野 2021, 「松永氏略系図」.
  4. ^ 寛政重修諸家譜 巻第九百八十五
  5. ^ 公卿補任』寛永九年条
  6. ^ 今谷・天野, pp. 151–154.
  7. ^ a b c 今谷・天野, pp. 155–157.
  8. ^ a b 今谷・天野, pp. 154–155.
  9. ^ a b 今谷・天野, p. 156.
  10. ^ a b 長江, p. 212.
  11. ^ 1964年から作業が開始された『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」による。
  12. ^ 草津市HP『くさつ歴史ギャラリー』令和2年度「六角承禎条目写」(草津市蔵・春日家文書)2023年10月7日閲覧
  13. ^ 天野(編)2017, pp. 30–31、中西裕樹「松永久秀の出自と末裔」。
  14. ^ 天野忠幸 2018, pp. 28–29.
  15. ^ a b c 天野2014, p. 158.
  16. ^ a b 天野忠幸 2018, p. 17.
  17. ^ a b 今谷・天野, p. 151.
  18. ^ 天野2014, p. 37.
  19. ^ 天野忠幸 2018, pp. 35–36.
  20. ^ 長江, pp. 212–213.
  21. ^ a b c 今谷・天野, p. 152.
  22. ^ 天野2014, p. 177.
  23. ^ 天野2014, pp. 177–178.
  24. ^ 天野2014, p. 178.
  25. ^ 天野 2021, pp. 52–54.
  26. ^ 天野 2021, pp. -52-54.
  27. ^ a b 天野2014, p. 159.
  28. ^ 長江, p. 213.
  29. ^ 天野2014, p. 62.
  30. ^ a b 天野2014, p. 70.
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  36. ^ 天野2014, p. 93.
  37. ^ 天野2014, p. 94.
  38. ^ 天野2014, p. 96.
  39. ^ 天野2014, pp. 99–100.
  40. ^ a b 天野2014, p. 100.
  41. ^ 天野忠幸 2018, p. 111.
  42. ^ 天野忠幸 2018, p. 112.
  43. ^ 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(吉川弘文館、2010年)p443
  44. ^ 長江, pp. 155–161, 164–166, 176–177, 213; 朝倉, pp. 218–219; 今谷, pp. 202–210, 213–226; 福島, pp. 115–116, 120.
  45. ^ 天野忠幸 2018, p. 135.
  46. ^ 長江, pp. 213–214.
  47. ^ 今谷・天野, p. 154.
  48. ^ 今谷・天野, p. 155.
  49. ^ 今谷・天野, pp. 156–157.
  50. ^ a b 今谷・天野, p. 157.
  51. ^ 田中信司「御供衆としての松永久秀―足利義輝三好亭御成の分析から―」(『日本歴史』729号、2009年)。
  52. ^ a b c d e 今谷・天野, p. 158.
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  54. ^ 天野 2018, p. 175.
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  58. ^ a b 天野2014, p. 250.
  59. ^ 天野2014, pp. 250–251.
  60. ^ 天野 2021, pp. 125–126.
  61. ^ フロイス日本史』25章。
  62. ^ a b 『フロイス日本史』32章。
  63. ^ 『フロイス日本史』34章。
  64. ^ 福島, p. 133.
  65. ^ 奈良市史審議会『奈良市史 建築編』(吉川弘文館、1976年)492頁。
  66. ^ 金松, pp. 61–62.
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  79. ^ 長江, p. 214.
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  85. ^ 村井早苗「キリシタン禁制をめぐる天皇と統一権力 : 統一政権成立過程における」『史苑』40巻2号(1980年)。
  86. ^ 天野2014, p. 161.
  87. ^ a b c d e 天野2014, p. 162.
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  91. ^ 寛政重脩諸家譜 第5輯』國民圖書、1923年、368頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/193 
  92. ^ 多聞院日記 第2巻(巻12-巻23)』三教書院、1935年、251頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207457/131 
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  96. ^ a b c 今谷・天野, p. 146.
  97. ^ a b 天野2014, p. 157.
  98. ^ 天野2014, p. 35.
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  101. ^ 天野2014, pp. 134, 157; 今谷・天野, pp. 158–159.
  102. ^ 天野2014, pp. 159–160.
  103. ^ 新井白石藩翰譜 第10上−11吉川半七、1894年、19頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780525/58 
  104. ^ 2020年3月6日毎日新聞大阪版「松永久秀の肖像画初確認、実像近い?没後の原画、江戸期に模写か、大河ドラマで注目」 - 天野忠幸「前歯を描くなど、美化して描かれた一般の肖像画とは異なる表現があり、基になった原画は久秀の特徴を知る人が描いたとみられる。」2020年3月5日閲覧。






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