松橋の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
小川が制圧された薩軍は松橋に撤退。衝背軍は3個旅団の並進を崩さず、30日には松橋へ進撃を開始する。黒田は別働第3旅団に松橋東方の豊野村を占領させ、残り2個旅団で松橋を包囲する。しかし薩軍は頑強に抵抗し、折からの大雨と、薩軍が故意に御船新田の水門を破壊して一帯に海水を流入させた事で攻め手は泥まみれとなり疲労は極限に達していた。それでも高島少将(昇進)は攻撃続行を主張、各隊は前進地点で露営し、翌31日、引き潮に乗じて別働第1旅団は進撃を再開し山背と本道の両面から松橋を攻撃、別働第1旅団は北豊崎から御船に進み、薩軍の右側を攻撃した。これに耐えきれず、薩軍は川尻に後退し正午には松橋を制圧した。部隊は翌4月1日にも攻勢を続け宇土を占領、緑川を挟んで両軍は対峙する。衝背軍は熊本城まであと10kmまで迫っていた。しかし衝背軍の戦線は広がり、兵力不足となっていた。そこで新たに別働第4旅団(司令官:黒川通軋大佐)約2600名が衝背軍に配属となり、7日には宇土半島に上陸した。
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