松井構想(蔣介石との連携)の破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:10 UTC 版)
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ところが、昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蔣介石への批判が相次いで、日中関係は松井の意図に反した方向へと流れていった。 同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蔣介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。松井は首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている[要出典])。しかし、結局うやむやのままになり、昭和天皇の怒りを買って田中義一が首相を辞めることになった。こうして松井構想は破綻した(田中正明の言)。 一方、蔣介石も日本への不信感を濃くした。昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国を経て、蔣介石の反日の姿勢は間違いなく強まっていった。
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