東路軍軍議とは? わかりやすく解説

東路軍軍議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「東路軍軍議」の解説

ところが壱岐島東路軍連戦戦況不利に加えて江南軍壱岐島合流する期限である6月15日過ぎて現れず、さらに東路軍内で疫病蔓延して3,000余人もの死者を出すなどして進退極まった高麗国王・忠烈王仕えた密直・郭預は、この時の東路軍様子を「暑さ不潔な空気人々を燻(いぶ)し、海上満たした(元兵の)屍は怨恨の塊と化す」 と漢詩詠んでいる。 この時の高麗軍司令官の征日本軍万戸・金周鼎の墓碑『金周鼎墓誌銘』によると、東路軍内では、互いに助け合うこともできないほど疲弊していたが、その中で金周鼎は病人率先して保護したという。また、金方慶墓誌銘によれば疫病蔓延し東路軍これ以上日本軍との連戦続行するのは難し状況であったという。東路軍の中では、撤退すべきとの声も上がったこのような状況至り戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征元帥・ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘らは撤退是非について日本元帥金方慶と以下のように何度議論した。 ヒンドゥ、洪茶丘皇帝クビライ)の命令では『江南軍をして、東路軍と必ず6月15日までに壱岐島合流させよ』とおっしゃった未だに江南軍壱岐島到着していない。我が軍東路軍)は、先に日本到着して数戦し、船は腐れ兵糧尽きたこのような事態に到って、いったいどうしたものだ」 この時、金方慶黙ったまま反論しなかった。10日余り後、同じよう議論繰り返された時、今度は以下のように反論した金方慶皇帝命令奉じて、3か月兵糧用意した。今、後1か月兵糧が尚ある。江南軍が来るのを待って両軍合わせて攻めれば、必ず日本軍を滅ぼすことができるだろう」 ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘敢えて反論せず、江南軍待ってから反撃に出るという金方慶主張通った

※この「東路軍軍議」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「東路軍軍議」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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