東軍として出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
溝口半左衛門は老候静山から召し出され、新発田兵の総隊長を任ぜられる。6月11日、物頭佐藤八右衛門、溝口四郎左衛門以下200名余、砲4門を率いて、見附の第一線に向かった。沼垂にいた堀主計隊からも200名余と砲2門が半左衛門の指揮下に入り、見附へ向かった。半左衛門の部隊には米沢藩兵が監視のために付いていた。16日に戦場に到着。19日、新発田藩の初陣となる。先鋒を命ぜられ、米沢の2小隊が督戦隊としてその後ろについた。さらに、5、6人の米沢藩士が直接新発田勢に入り込んで監視した。新発田藩は佐藤八右衛門が負傷したほか、戦死4、戦傷5の犠牲を出したが、米沢藩総督千坂太郎左衛門より「御初陣の御勝利、ひっきょう御世話行き届くの故と、全く感心候」と評価され、現場の指揮官、米沢の斎藤主計も「幣藩を始め、諸藩ともに目を驚かす御勇猛の段、感心致し候。この末は、諸藩の疑念も散じ候はもちろん、及ばずながら幣藩にていずれの義へも、万端引き受け申し候」とした。
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