東北艦隊指導者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 02:07 UTC 版)
中華民国成立後、沈鴻烈は南京臨時政府において海軍部軍機処参謀に任ぜられ、翌年、北京政府で参謀本部上校課長に転じた。1916年(民国5年)3月から2年半にわたり欧米へ海軍の実情調査に赴いている。1918年(民国7年)10月に帰国し、陸軍大学の第5期・第6期海軍教官を務めた。 1920年(民国9年)春、沈鴻烈は尼港事件の事後処理のため、中国側副代表として日本との交渉に当たった。このときの交渉の成果を評価した東三省巡閲使張作霖により、沈は張率いる奉天派へと招聘される。同年冬、吉黒江防司令公署が成立し、沈は同公署参謀に任ぜられ、まもなく参謀長に昇進した。1922年(民国11年)8月、江防司令公署内に航警署が設置され、沈はその署長を兼任している。翌1923年(民国12年)7月、沈の建議を容れた張の命により、東北海防艦隊(以下「東北艦隊」)が結成され、沈が海軍中将司令を兼任した。以後、沈鴻烈は東北艦隊の指導者として北京政府において台頭することになる。 1927年(民国16年)7月には、沈鴻烈は渤海艦隊(山東督軍張宗昌に所属)に触手を伸ばして、これを東北艦隊に組み入れてしまう。さらに新たに東北艦隊の合同指揮機関として海軍総司令部を設立し、張作霖が総司令、沈が副司令に就任した。もちろん、実際の東北艦隊指揮権は沈が掌握し、総司令事務を代行している。
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