東京 ブラックボックスとMAKO
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 19:03 UTC 版)
「日本のゲイ文化」の記事における「東京 ブラックボックスとMAKO」の解説
1966年には新宿二丁目(東京都新宿区)のゲイクラブ「NEW SAZAE」は既に開店しており、後にゲイディスコミュージックのスーパースター「ヴィレッジ・ピープル」や「クイーン」のフレディ・マーキュリーも来店した。 1976年に開店した美輪明宏の「クラブ巴里」、ゲイ雑誌薔薇族の「談話室 祭」が入った新宿五丁目靖国通り沿いの瀟洒な白いビル、Qフラットの地下には 「ブラックボックス」という1970年代としては最も進んだ異色のゲイディスコがあり、ゲイや外国人モデル、パンク風スタイルの若者が集まった。通常のディスコと異なり入場料は男性のほうが安価であった。この頃、伊勢丹裏の「ツバキハウス」(異性愛者中心)も全盛で、常連客は2つの店舗を往来していた。「ツバキハウス」では当時、歌舞伎町で最も有名だったニューハーフが開始したとされる「オネエウォーク」といわれる独特のダンスが誕生したといわれる。また上述のゲイDJ、中村直が1981年にDJデビューしたのもツバキハウスだった。 また新宿二丁目には「MAKO」や「ブギーボーイ」、雑誌などでよく取り上げられていた「フルハウス」もあった。MAKOは小規模ビルの3階に構える店舗だったが、若年層のゲイが多数集う店舗は当時は存在せず、満員電車並の混雑を見せ、入店できない客は階段や路上を彷徨ったりなどした。「MAKO」は後に隣のビルに移転してMAKO2となり、元の場所はゲイバーになったが、移転先のMAKO2は盛況だったが1985年5月、突然閉店した。二丁目のゲイディスコの運命は、皮肉なことに、異性愛女性客が増加すると客層のメインとなるゲイ男性客が離れ必ず廃業していった。
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