材木商から江戸三大呉服店へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 材木商から江戸三大呉服店への意味・解説 

材木商から江戸三大呉服店へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:02 UTC 版)

白木屋 (デパート)」の記事における「材木商から江戸三大呉服店へ」の解説

初代大村太郎可全が、慶安年間京都の寺の内に材木商として白木屋開いたのが始まりである。 初代大村太郎の母方の河崎家は近江の国材木商であり、その商売手伝ったあと、白木屋屋号もらって独立して開いたものであったが、独立・開業した直後白木屋名乗っていなかったとされている。 また、初代大村太郎の父である大村道与も同様に河崎家の支援受けて京都で「菊屋」の名で材木商営んでいたとされており、その再興を図る形にもなっていた。 この京都白木屋材木商傍ら木綿類や日用品販売も手がけており、このことがのちの呉服店へつながることになった初代大村太郎江戸繁華街出て商売を行うことに早くから強い意欲燃やし寛文2年8月24日1662年10月6日)に日本橋通2丁目間口一間半の小間物としての白木屋開いた開店から3年後寛文5年1665年)に当時一等地であった日本橋通り1丁目に移転し近隣買収しながら徐々に店舗拡張進めていった。 また、寛文8年1668年)には羽二重地の販売始め延宝6年1678年)には縮緬毛氈紗・綾等の販売手がけるようになり、延宝7年1679年)に晒木綿天和元年1681年)に木綿羽織地に着尺麻と徐々に取り扱い品目拡張し呉服太物商仲間入り果たしたその後貞享元年1684年)には店を拡張したほか、貞享3年1686年)には高級品とされていた郡内縞売り出し宝永元年1704年)には贅沢品毛織物含めた一般呉服物売出すなど江戸の町人文化の開花合わせて販売品目広げ越後屋(現・三越)や大丸屋(現・大丸)と並んで江戸三大呉服店のひとつに数えられる大店成長した享保期(1716-1736)以後数度類焼洪水飢饉遭遇したが、宝暦元年1751年)には市ヶ谷店を開いた。しかし、天保の改革奢侈禁制により呉服店繁栄低迷し白木屋幕末期より京都本店江戸店ともに莫大な借財負って経営困難に陥り、京都から千両もの資金援助仰いだ市ヶ谷店は慶応4年1868年)に閉店続いて名古屋店富沢町店も閉店した

※この「材木商から江戸三大呉服店へ」の解説は、「白木屋 (デパート)」の解説の一部です。
「材木商から江戸三大呉服店へ」を含む「白木屋 (デパート)」の記事については、「白木屋 (デパート)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「材木商から江戸三大呉服店へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「材木商から江戸三大呉服店へ」の関連用語

材木商から江戸三大呉服店へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



材木商から江戸三大呉服店へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの白木屋 (デパート) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS