材木商から江戸三大呉服店へ
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「白木屋 (デパート)」の記事における「材木商から江戸三大呉服店へ」の解説
初代大村彦太郎可全が、慶安年間に京都の寺の内に材木商として白木屋を開いたのが始まりである。 初代大村彦太郎の母方の河崎家は近江の国の材木商であり、その商売を手伝ったあと、白木屋の屋号をもらって独立して開いたものであったが、独立・開業した直後は白木屋を名乗っていなかったとされている。 また、初代大村彦太郎の父である大村道与も同様に河崎家の支援を受けて京都で「菊屋」の名で材木商を営んでいたとされており、その再興を図る形にもなっていた。 この京都の白木屋は材木商の傍らで木綿類や日用品の販売も手がけており、このことがのちの呉服店へつながることになった。 初代大村彦太郎は江戸の繁華街へ出て商売を行うことに早くから強い意欲を燃やし、寛文2年8月24日(1662年10月6日)に日本橋通り2丁目に間口一間半の小間物商としての白木屋を開いた。 開店から3年後の寛文5年(1665年)に当時の一等地であった日本橋通り1丁目に移転し、近隣を買収しながら徐々に店舗の拡張を進めていった。 また、寛文8年(1668年)には羽二重地の販売を始め、延宝6年(1678年)には縮緬・毛氈・紗・綾等の販売も手がけるようになり、延宝7年(1679年)に晒木綿、天和元年(1681年)に木綿羽織地に着尺麻と徐々に取り扱い品目を拡張し、呉服太物商の仲間入りを果たした。 その後、貞享元年(1684年)には店を拡張したほか、貞享3年(1686年)には高級品とされていた郡内縞を売り出し、宝永元年(1704年)には贅沢品の毛織物を含めた一般呉服物を売出すなど江戸の町人文化の開花に合わせて販売品目を広げ、越後屋(現・三越)や大丸屋(現・大丸)と並んで江戸三大呉服店のひとつに数えられる大店に成長した。 享保期(1716-1736)以後、数度の類焼、洪水、飢饉に遭遇したが、宝暦元年(1751年)には市ヶ谷店を開いた。しかし、天保の改革の奢侈禁制により呉服店の繁栄も低迷し、白木屋も幕末期より京都本店・江戸店ともに莫大な借財を負って経営困難に陥り、京都から千両もの資金援助を仰いだ市ヶ谷店は慶応4年(1868年)に閉店、続いて名古屋店、富沢町店も閉店した。
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