李崇智による先行研究の整理・考証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 09:11 UTC 版)
「利正」の記事における「李崇智による先行研究の整理・考証」の解説
楊慎『滇載記』、阮元声『南詔野史』、鍾淵映『歴代建元考』は段興智の元号として天定のみを記載しているが、『南詔野史』(胡蔚増訂本)には利正、興正、天定の順で、李兆洛『紀元編』には天定、利正、興正の順で3つの元号が記録されている。 これに対して、李家瑞論文は、段興智の死去に際し元が天定賢王の諡号を追贈していることから、天定が唯一の元号でない可能性を指摘し、利正、興正、天定が各1年使用されたと推測している。一方、張増祺論文は、段興智の在位期間が3年余であり、また大理では一般に即位の翌年に踰年改元しているので、実質2年程度の期間しかないのに対し、1964年に大理で出土した故正直温良恭謙和尚墓碑に「天定2年」の記載があることから、『南詔野史』にある3度の改元は確実ではないと結論づけている。また李崇智自身も、仁義道済大師墓銘(大理で出土、尹明挙等編『大理風情録』、雲南人民出版社、1981年、所収)を論拠として、元軍が1253年に大理を打ち破った際の元号は天定であり、その12月に段興智が逃亡、翌年春に捕らえられていることから、短期間での改元は困難であると考察している。
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