杉浦監督時代 - 南海身売り
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「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「杉浦監督時代 - 南海身売り」の解説
1986年 再建を託されて監督に迎えられたのは切り札・杉浦忠。杉浦は「私を育ててくれた球団を強くする」と就任時に決意表明した。前監督の穴吹が進めていた若返り策が加速。杉浦はルーキーの西川佳明を積極的に起用、中盤戦から井上祐二をストッパーにした。西川は清原和博に新人王を譲ったが期待に応じ10勝、チームは2年連続の最下位。オフには巨人を自由契約となった加藤英司を獲得。 1987年 加藤と門田が2000本安打を達成し、15勝を挙げて台頭した藤本・山内和・山内孝と3人の2桁勝利を挙げ、井上が20セーブポイントで2位となり、チームは前半を3位で折り返し、9月6日には首位西武に3.5ゲーム差まで迫るが、その後失速し、日本ハムに抜かれ4位に終わる。「来季から湯上谷、立浪のフレッシュ二遊間で売り出す」と球団を挙げて公言するなど、この年のドラフト会議では当時PL学園高校の主将であった立浪和義の獲得と翌年以降の湯上谷宏・立浪の若手コンビによる二遊間形成を目論んだが、結局立浪はくじ引きで中日ドラゴンズが獲得し、この構想は幻に終わった。 1988年 この年球団創立50年を迎えたが、4月23日に「おれの目の黒いうちはホークスは売らん」と公言していた川勝傳オーナーが死去。新たに就任した吉村茂夫オーナーは就任早々から球団売却に手をつけるなど身売りへの動きが進み、9月にダイエーへの球団売却を発表。南海ホークスとしての最終シーズンとなった。この年は結果的に5位に終わるも、門田が44本塁打・125打点を挙げ40歳代の選手としての最高記録 を残し二冠王獲得、さらに年間MVPも獲得し、佐々木誠、トニー・バナザードが活躍した。南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで杉浦監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、(福岡に)行ってまいります!」とのスピーチを残した。シーズン後に門田は九州行きを拒否してオリックスへ1対3のトレードで移籍した。
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