木曽興業の設立と合併
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中央製紙と同様に大川系の製紙会社であった木曽興業の設立も、地元有志の誘致を契機としていた。地元有志は木曽の皇室所有林(御料林)の木材を活用すべく渋沢栄一に協力を求め、それを受けて大川平三郎が同地での製紙工場建設を企画。渋沢の支援の下、大川の手によって木曽興業は設立された。同社の創立総会は1908年10月11日である。 工場用地選定は平地が少ない山間部であるため難航したが、原木搬入の便が良く、かつ鉄道(中央本線)沿いであった大桑村須原の橋場地区に確保された。工場は1912年1月に着工、翌1913年1月1日より正式に営業を開始した。抄紙機は1台設置。砕木パルプ (GP) を製造する機械の輸入が遅れたため、当初は輸入SPを原料に模造紙を製造し、後に中央製紙からGPの供給を受けて新聞紙の製造を開始した。GPの製造を開始するのは1914年末のことである。また、1918年10月に2台目の抄紙機を増設した。 ただし計画時の構想とは異なり、原料の木材については御料林からの払い下げを受けることに失敗した。木材は北海道や樺太からの調達となり、名古屋港や富山県の伏木港で陸揚げし、須原まで鉄道輸送した。 洋紙生産高は初年の1913年が553万ポンド(約2500トン)、1919年が1584万ポンド(約7200トン)である。 木曽興業の筆頭株主は、8.3%の株式を持つ中央製紙であった(1913年9月時点。大川の出資比率は8.2%で2番目の株主)。この中央製紙は1920年1月20日、原材料の購入および製品販売の合理化を目的に木曽興業を合併した。
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