曽我ひとみと同居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 21:28 UTC 版)
「曽我ひとみ」も参照 曽我ひとみの証言によれば、1978年(昭和53年)8月から1980年(昭和55年)6月頃まで平壌市内で1年半曽我ひとみと同居しており、2人はすぐに仲良くなったという。彼女は曽我ひとみといるときはいつもにこにこしていて、かわいらしいえくぼを見せていた。昼は朝鮮名で呼び合ったが夜はひそひそ声で日本語でさまざまなことを話した。彼女と曽我ひとみを担当した教育係の一人が辛光洙であった。1年早く北朝鮮に連れてこられた彼女は曽我ひとみに朝鮮語の初歩を授けた。2人は一緒に朝鮮語を勉強し、また、バドミントンや卓球をすることもあったという。当時15歳だった彼女は、故郷のことをしきりに思い、泣くことも多かったという。2人とも日本が恋しく、とにかく日本に帰りたかった。母への思いは共通していた。曽我ひとみとは強い友情で結ばれ、のちに自分の娘に曽我ひとみの朝鮮での名前である「ヘギョン」の名をつけた。曽我ひとみがチャールズ・ジェンキンスと結婚することになったとき、彼女はひとみに餞別としてバドミントン用のバッグをあげたという。その後、1983年か1984年頃、横田めぐみは曽我ひとみにそれとなく音信を伝える方法を考え、それによれば平壌の中心部に住んでいて元気にやっていたようである。
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