旧・諸侯による運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 10:18 UTC 版)
江戸幕府第15代将軍でかつ内大臣でもあった徳川慶喜は、幕府滅亡後に徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)に譲って同家の隠居扱いとなっていたが、1902年(明治35年)になって養子・家達とは別に公爵を授けられ、宗家とは別家(徳川慶喜家)を創設した。 請西藩主林忠崇は戊辰戦争で旧幕府側についたことを理由に改易され、維新前に諸侯だった大名家中、唯一士族に編入された。旧・家臣や領民が長く叙爵運動を続け、1894年(明治27年)になって忠崇の甥である林忠弘が、本来よりも1つ低い男爵に叙せられた。 越前松平家福井藩の御附家老の本多家は、陪臣とされ旧・大名としての待遇を受けることができず、当主の本多副元は華族ではなく士族とされた。これを不服とした旧家臣・旧領民らによって暴動(武生騒動)が勃発した。武生騒動は多くの処罰者を出したが、それらの運動の結果、本多家は徳川御三家の附家老と同じく1879年(明治12年)に改めて華族に列せられ、1884年(明治17年)に男爵に叙された。
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