日露修好通商条約・天津条約の締結
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「エフィム・プチャーチン」の記事における「日露修好通商条約・天津条約の締結」の解説
1856年から1857年にかけてクロンシュタット軍事知事を務めた後、9月21日(安政4年8月4日)に軍艦アメリカ号で再度長崎に来航、水野忠徳らと交渉し、10月27日(安政4年9月10日)に日露追加条約を締結した。12月には太平洋艦隊司令長官に任命され、アムール湾の海岸を調査した。 この当時、清ではアロー戦争が勃発しており、英仏連合軍が広州、天津を占領していた。プチャーチンはこの機に乗じて、調停の名目で介入し、1858年6月13日、天津において清との間に天津条約を締結した。 その後、再び日本に向かい1858年7月30日(安政5年6月20日)、神奈川に入港。8月12日(安政5年7月4日)、当時外国使節の宿館であった芝愛宕下の真福寺に入った。同所において幕府側と交渉を行い、8月19日(安政5年7月11日)、日露修好通商条約を締結した。翌日、江戸城で将軍家世子徳川慶福(家茂)に謁見した後、本国に帰国した。
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