日本資本主義論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:04 UTC 版)
昭和初期の代表的な維新論として、マルクス主義者によるものがある。野呂榮太郎は「日本資本主義発達史」(1927年)で明治維新を「ブルジョワ革命としての明治革命」とし、「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位に即かしむるための強力的社会変革」と規定したが、コミンテルンの「日本問題に関する決議」により野呂はこの説を放棄した。しかし、その後山田盛太郎、野呂栄太郎、服部之総、羽仁五郎らは『日本資本主義発達史講座』(1932-1933年、岩波書店)をまとめた。これに対して、労農派が批判し、同講座の執筆陣が講座派とされて、日本資本主義論争(1933年-1937年)が起こった。日本共産党の活動方針を巡って講座派と労農派はそれぞれ二段階革命論、一段階革命論を唱えた。労農派は明治維新により日本は資本主義段階に突入したと考え、マルクス主義の唯物史観の公式通りただちに社会主義革命を目指すべきだと主張したのに対して、講座派は明治維新は不完全な民主主義革命であり、日本は未だ半封建的な段階にあるとし、まずブルジョワ民主主義革命を目指し、その先に社会主義革命はあるという二段階革命論を主張した。1934年に特別高等警察による野呂栄太郎が拷問死し、さらに1936年にコム・アカデミー事件での講座派一斉検挙により壊滅した。1937年人民戦線事件で労農派も一斉検挙された。 終戦後講座派は復活し、羽仁五郎は『明治維新』(岩波新書)、『明治維新之研究』(岩波書店)を刊行した。
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