日本における台湾バナナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 00:42 UTC 版)
「台湾バナナ」の記事における「日本における台湾バナナ」の解説
今も昔も生産量が少なく、高級品として珍重されるバナナである。1902年に台湾―日本間の航行船・西京丸と台中丸の船員が数キロのバナナを神戸港の浜藤商店にたびたび持ち込み、同店が販売したのが台湾バナナが日本の店頭に登場した最初である。1903年(明治36年)、日本郵船会社の都島金次郎と基隆商人の頼成発によって日本に初めて台湾バナナが輸入された。当時の日本は冬季のミカンから夏季のスイカまでの間の果物需要を満たす果実が少なく、台湾バナナは日本人好みに品種改良が行われ、次第に日本の食卓へと浸透していった。台湾総督府もこの新たな特産物を奨励し、1924年(大正13年)には半官半民の「台湾青果株式会社」を設立。流通を担い、1937年(昭和12年)に台湾バナナの出荷がピークを迎えたが、第二次世界大戦の勃発により、戦時中、台湾バナナの出荷量は激減した。 戦後、まずはGHQ向けに出荷が再開され、その後は民間向けにも再び日本への出荷が始まったが、当時の日本政府は外貨不足から輸入割当制度を行っており、その総量はなかなか回復しなかった。一方では、依然として高い消費需要があったため台湾バナナは値上がりし、特に上質の台湾バナナは料亭やホテルに買い占められていたため、1955年(昭和30年)ごろまで台湾バナナは「高級品」の位置づけにあり、庶民が上質の台湾バナナを購入できるのは見舞いなどの際にほぼ限られていた。現代でも台湾バナナを販売する店が少なく、フィリピン産のバナナと比べて3倍程度の価格で販売されているため、高級品であることは変わっていない。
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