旅団長の戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 17:38 UTC 版)
「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「旅団長の戦死」の解説
コルスン包囲戦の間、「ヴァロニェン」旅団は包囲の東側でソビエト赤軍を阻止する任務を委ねられた。ドイツ陸軍第72歩兵師団(72. Infanterie-Division)と第105歩兵師団(105. Infanterie-Division)がノヴォ=ブダ(Novo-Buda)村で赤軍の攻撃を受けた時、「ヴァロニェン」旅団は両師団の救援に向かった。その後、包囲されていたドイツ陸軍第11軍団(XI. Armeekorps)の司令官ヴィルヘルム・シュテマーマン砲兵大将(General der Artillerie Wilhelm Stemmermann)が包囲脱出の準備のために西へ部隊を動かす間、「ヴァロニェン」旅団と「ヴィーキング」師団は後衛を務めるよう命令された。 これまでの14日間、補給も無く雪と泥の中で繰り広げられた戦いによって、「ヴァロニェン」旅団の戦闘可能兵力は250名にまで減少していた。2月13日朝、第1および第2中隊の陣地は22両のT-34戦車と大量の随伴歩兵の攻撃を受け、間もなく第3中隊の陣地にも赤軍の攻撃が及んだ。この激戦の最中、最前線の状況を確認していた「ヴァロニェン」旅団長リュシアン・リッペールSS少佐は赤軍の狙撃兵によって射殺された。
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