新発田城包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
6月9日、新発田の郊外、五十公野、佐々木、真野原、島潟堤に米沢ら同盟諸藩の軍隊が続々集結した。この包囲網の外側の、島見、松ヶ崎にも後詰の軍が控えた。米沢の大滝新蔵の軍200人余、ほか合計600人を超える兵力だった。新発田藩は、江戸に400人余、沼垂に400人余派遣しており、農兵がいたとしても数百人程度。前日8日に、五十公野で同盟諸藩の会議があり、家老の溝口内匠、山崎重三郎が呼びつけられていた。出兵させるか、藩主一族は城を立ち退くか、9日夜12時までにどちらかに応じなければ、総攻撃に移る、と最後通告を突きつけられた。 新発田を守る隊長は佐治孫兵衛様でございましたが『もし敵を防ぎきれない時は鐘を鳴らすから、その時は新発田が負けそうだと思って、即刻立ち退け』という御布令がまわされていしたから、どうぞ孫兵衛様の鐘が鳴るなら、昼に鳴るようにと、祈っていました。家内中毎日びくびくして、今日も鳴らなかった、などといっておりました。ところが大雨の降った晩、恐れておりました孫兵衛様の鐘が、突然鳴りました。ああ、とうとう鳴った。このどしゃ降りの最中にと、泣き顔で道具の片付けを始め、めぼしいものを背負って、雨の中を近くの農家に逃れました — 『新発田市史』所収「郷土余話」諸橋たま子さんの談話 約束の12時を過ぎても、新発田藩からの返答はない。大滝新蔵は腹心の桜孫左衛門を呼び、自分は単身新発田城に乗り込むから、一刻過ぎても戻ってこなかったら総攻撃に移るようにと伝える。大滝が城へ向かおうとしたとき、馬が駆けて来て、溝口内匠らが来て、直ちに出兵する、領民扇動の首謀者 2名(前出の折笠、阿部)を引き渡すと回答した。そして何事もなかったように10日の朝を迎えた。
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