新川スラムの誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:54 UTC 版)
「神戸市のスラム問題」の記事における「新川スラムの誕生」の解説
1899年(明治32年)7月、改正条約施行に伴い治外法権が撤去され、居留地制度も廃止されることとなった。有力者たちの中に、その機会に市区改正を推進し、土木・衛生・教育・勧業政策全般の刷新を図ろうとする気運が高まる。その一環として木賃宿移転の声も上がった。兵庫県は同年同月には宿屋営業取締規則を改正し、翌月には木賃宿営業区域を葺合村と長田村の一部に限定し、市内の木賃宿の移転を命じた。翌1900年には「不良長屋」の移転も計画された。これらの移転先として指定されたのが葺合村周辺が「新川」地域であったが、これらの移転はスムーズには運ばず、「新川」地域は長屋裏屋建築規制が適用されず安価な長屋が建てやすかったことも手伝い、明治30年代に爆発的な人口の増大を見る。この時期から大正期にかけてに生田川(新川)周辺に「新川」スラムが形成され、木造密集地域として現在に至っている。1901年‐1906年の5年間に葺合区の人口増加率は1.42倍であったが、「新川」地域は約5倍となりそのまま肥大化し、東洋一のスラムと言われた日本最大のスラムにまで成長。また、同地区は伝説のヤクザボンノこと菅谷政雄(三代目山口組若頭補佐)、五島組組長の五島伊佐夫、初代松浦組組長の松浦繁明などの他、松下組組長-松下靖男、松下会会長-松下正夫をはじめとする初代山健組幹部(後に山口組幹部)の出身地としても知られる。。
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