新ミュサヴァト党時代
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「ミュサヴァト党」の記事における「新ミュサヴァト党時代」の解説
ソビエト連邦の崩壊に先立つ1989年、知識人グループによるアゼルバイジャン国家民主新ミュサヴァト党がアゼルバイジャンで結成された。そのグループが設立した党復旧センターを亡命組織も承認し、1992年に国内外の党組織が集まって開かれた「ミュサヴァト党第3回党大会」で正式にミュサヴァト党は復活した。新たな党首には人民戦線出身のイサ・ガンバル(アゼルバイジャン語版)が選出され、党組織は「党首」(Başqan)、「理事会」(Divan)、「議会」(Məclis) の3つに再編された。 政策面では、1993年から与党新アゼルバイジャン党に反対する立場を取っている。2000年11月5日から翌年1月7日にかけての選挙での得票率は4.9パーセントで、125議席中2議席を獲得した。2003年10月25日の大統領選挙(ロシア語版)では、ガンバル候補は12.2パーセントの票を得た。2005年11月6日の議会選挙 (en) では「自由」ブロック (az) に参加し5議席を獲得した。ガンバルが議席を失った後の2003年10月16日と2011年3月12日には、政府に対して抗議活動を行って注目された。 その他の主張には、アゼルバイジャン政府がクルド人、タリシュ人、アルメニア人などの非テュルク民族によって支配されているといった民族主義的なものがある。
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