斎藤正直
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斎藤 正直(さいとう まさなお、1911年10月11日 - 1994年4月7日)は、日本のフランス文学者、文芸評論家、翻訳家。明治大学文学部教授、学長も務めた。
略歴
東京外国語学校へ進むが学生運動で放校、小林秀雄の援助を受け、1934年明治大学文芸科に入学して里見弴、今日出海、豊島与志雄の教えを受け、豊島の娘と結婚。 1939年には同人誌『批評』の創刊に参加。
戦後『近代文学』同人となり、助手から明大文学部仏文科助教授、教授として倉橋由美子らを教えた。ヴィクトル・ユゴー、ロマン・ロランなどを翻訳、長島良三、矢野浩三郎らの翻訳家を育てた。
編著
- 『現代に生きる世界名言集』(あかつき書店) 1962
- 『世界名言集 : 知と愛のことば』(光風社書店) 1977
- 『朝鮮訪問記 未来にはばたくチュチェの国』(そしえて) 1982
翻訳
- 『レ・ミゼラブル (ジャン・ヴァルジャン)』上・下(ヴィクトル・ユーゴー、豊島与志雄訳を再編、同光社) 1949、のち三笠書房
- 『レ・ミゼラブル』(ユゴー、平凡社、世界名作全集) 1959、のち潮文庫 1970
- 『水の上』(モーパッサン、河出書房、世界文学全集) 1951
- 『ナナ』(ゾラ、河出書房、世界文学全集) 1955
- 『ナナ』(ゾラ、筑摩書房、Chikuma classics) 1978
- 『ベベ・ドンジュの真相』(シメノン、早川書房、シメノン選集) 1955、のち世界ミステリシリーズ
- 『海の勇者』(ユーゴー(再話)、講談社) 1955
- 『エデンの姉弟』(マルセル・シュナイダー、秋元書房) 1958
- 『まだ早すぎる』(テレスカ・トーレス、秋元書房) 1958
- 『八十日間世界一周』(ベルヌ、岩崎書店、ベルヌ冒険名作選集) 1959
- 『恋の手ほどき / 青い麦』(コレット、秋元書房) 1959
- 『夏の終り』(フレデリック・コーナー、秋元書房) 1959
- 『かまきり』(ユベール・モンテイエ、早川書房) 1964
- 『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン、集英社、世界文学全集) 1968
- 『死刑囚最後の日』(ヴィクトル・ユゴー、潮文庫) 1971
- 『愛と死の戯れ』(ロマン・ロラン、潮文庫) 1973
- 『アンドレ・マルロー 小説的生涯』(ピエール・ガラント、早川書房) 1983
児童向翻案
- 『海の勇者』(ユーゴー原作、松田穰絵、講談社、世界名作全集107) 1955
- 『ジャン・バルジャン物語』(ユーゴー原作、中山正美絵、筑摩書房、世界の名作1) 1956
- 『八十日間世界一周』(ベルヌ、武部本一郎絵、岩崎書店、ベルヌ冒険名作選集5) 1959
- 『レ・ミゼラブル』(ユーゴー、豊島与志雄共訳、依光隆絵、金の星社) 1968
- 『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン原作、山東洋絵、集英社、ジュニア版世界の文学17) 1975
齋藤正直
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専修大学硬式野球部 監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 秋田県由利郡象潟町(現・にかほ市) |
生年月日 | 1960年4月3日(65歳) |
選手情報 | |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴
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指導者歴
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この表について
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齋藤 正直(さいとう まさなお、1960年4月3日 - )は、秋田県由利郡象潟町(現・にかほ市)出身の野球指導者[1]。
経歴
6歳年上の兄の影響で野球を始める[2]。友達を誘い、秋田市内の八橋に所在する日吉八幡神社近辺の空き地で野球を楽しんだ[2]。通学していた秋田市立旭北小学校や秋田市立山王中学校の野球チームに所属していた[2]。
秋田高校では、強打の左打者として1年時よりレギュラー[1]。高校在学中の3年間で甲子園大会などの全国大会出場は叶わなかった[2]。
進学した東都大学野球の専修大学では1年の春季リーグから四番を担う[1]。リーグでは3年と4年の秋にそれぞれ優勝し、ベストナインにも2度選出されている[1]。1981年の明治神宮野球大会では準優勝の成績を修める[1]。1学年上に山沖之彦、同期の外野手に定岡徹久がいた。
大学4年時にはプロ野球10球団からドラフト指名の打診を受けるも、自身の能力を客観的に評価し[2]、拒否して、社会人野球の川崎製鉄千葉に入社[1]。同社では選手として、12年間で都市対抗野球大会に9回出場した[1]。1994年11月に同社の監督に就任し、3年務めた[1][2]。監督時代もチームを都市対抗野球出場に導き、同郷の後藤光尊、藤田太陽らを指導した。社会人野球からは離れ、営業職として15年過ごした[2]。
2014年3月には、母校の専修大学硬式野球部監督に就任し、学生野球で指導を行っている[1]。
脚注
固有名詞の分類
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