教師と学者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 13:42 UTC 版)
「カンタベリーのランフランクス」の記事における「教師と学者」の解説
ランフランクスは修道院長のヘルルイヌス(英語版)の勧めによって修道院内に学校を開いた。ランフランクスは当初から称賛された(totius Latinitatis magister)。彼の下にはフランス・ノルマンディーからだけではなくガスコーニュ、フランドル、ドイツ、イタリアからも門人が集った。その多くは後に教会内で高い地位に就いた。後に教皇アレクサンデル2世となったバッジョのアンセルムスも彼の門人とされているし、ベックのアンセルムスもランフランクスの跡を継いでカンタベリー大司教となっている。このようにしてランフランクスはベックを中心とした改革運動の知的活動を保護した。彼の講義で好まれた議題は論理学と教義神学である。そのため彼はトゥールのベレンガリウスの攻撃から聖変化の教義を擁護するために招聘された。彼は非常に熱心にその責務に取り組んだが、ベレンガリウスとはかねてよりの個人的な親交関係があった。彼はヴェルチェッリ教会会議(1050年)、トゥール教会会議(1054年)、ローマ教会会議(1059年)において正統教義の唱道者であった。 ヒルデブラントや枢機卿の内のより心の広い人々によってベレンガリウスの主張が棄却されたのはランフランクスの影響があるとされている。ランフランクスの論証法について知られている情報は主に小冊子『主の肉と血について』(羅:De corpore et sanguine Domini)に由来している。この小冊子が執筆されたのはかなり後年のこと(1079年以降)で、その頃にはベレンガリウスは最終的に有罪宣告されていた。この著作は形而上学的能力の兆候を全く示していないが、決定的なものとみなされてしばらくの間学校で教科書として利用された。この著作は、アリストテレスの実体と偶性の区別が初めて聖餐における変化を説明するのに使われたものだとしばしば言われる。この著作はランフランクスに帰せられる現存する作品の中で最も重要である。
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