政界進出~八戸市長時代
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1912年に湊村村会議員、1915年に三戸郡会議員に当選。1927年に青森県議会議員に当選すると、市制施行賛成派(浜通り派)である神田は八戸市制の発足に向けて、市制施行反対派(奥南派)の説得に乗り出した。八戸市制が敷かれた1930年に八戸市議会議員に当選。同年初代議長に選ばれた。一方で、市制施行により地域単位の派閥が残り、八戸戦争に発展する結果となった。 1929年8月4日に初代八戸市長の近藤喜衛の辞任に伴い、近藤と市長選で争った経験のある神田が2代目八戸市長に就任する。3期務め、八戸港の修築・市営魚市場の開設などに力を注いだ。また、1930年に八戸銀行が恐慌による休業を余儀なくされた時には自ら銀行の再建に乗り出す。1942年、市長選で山内亮に1票差で破れ退任した。八戸市で市長在任中に敗れたのは神田・岩岡・中村拓道・中村寿文の4人である。
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