政治結社として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 06:41 UTC 版)
神陽は尊皇思想を藩内に広めることで、藩論を尊皇倒幕へ向かわせることを目的としており、祭典終了後は無礼講として一切格式を問わず論議を行うという形で参加者に尊王思想を説いていた。また、後に参加した大隈重信や江藤新平を加え、佐賀城北の大興寺を拠点に定期的に会合を開き、尊皇思想や政局を論議した。 しかし、藩主直正の「議論は自由に行うべきである」という方針により、藩の家老クラスから下級武士まで様々な層から参加を得られたものの、徐々に「藩の針路を誤らせるのでは」と危険視され、会合も次第に儀式化していった。そのため、副島種臣を京都に派遣し、朝廷関係者に倒幕を呼びかけたり、大隈重信が直接藩主直正に談判を行うなどの奇策を実行したが、いずれも失敗し、藩論を動かすことはできなかった。 とはいえ、同盟の参加者からは明治維新などに大きな役割を果たした人物を多数輩出しており、枝吉神陽から直接影響を受けた者たちの中では最年少の参加者で後に総理大臣も務めた大隈重信は、 「この同盟の中から後年政界に立って頭角を現わした人も多い、予がこれに加盟したのは、世に出て志を立てるきっかけになったと言ってもよい」 と回顧している。
※この「政治結社として」の解説は、「義祭同盟」の解説の一部です。
「政治結社として」を含む「義祭同盟」の記事については、「義祭同盟」の概要を参照ください。
- 政治結社としてのページへのリンク