攻防戦の象徴として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 06:44 UTC 版)
戦争以前、ドイツ軍はソ連の諸都市を占拠して国全体を征服するのに数週間もかからないだろうと考えていた。しかし蓋をあけてみれば、二ヶ月かけてもこの半ば廃墟と化した、せいぜい十数人程度の兵士によって守られた家屋のひとつすら占領できなかったのである。その意味で、「パヴロフの家」はスターリングラード攻防戦、ひいては独ソ戦全体を通してソビエト軍が見せた我慢強い抵抗の象徴として見られるようになった。このことは、ドイツの地図においてこのアパートが建つ1月9日広場が要塞として記載されていることからも伺える。 スターリングラード攻防戦において第62軍(英語版)司令官だったワシーリー・チュイコフは、回顧録の中でパヴロフの家を守った兵士の名前十余名を記した上で、「この小集団が家を守った戦いで、ナチスはパリを攻略した時よりも多数の兵士を失っている」と讃えている。 戦後、「パヴロフの家」は再築され、現在に至るまでアパートとして使用されており、戦闘後にヴォルガ川の東側に散らばっていたレンガから造られた記念碑が壁面に飾られている。 またパヴロフはこの戦闘での功績により、ソ連邦英雄の称号を与えられた。
※この「攻防戦の象徴として」の解説は、「パヴロフの家」の解説の一部です。
「攻防戦の象徴として」を含む「パヴロフの家」の記事については、「パヴロフの家」の概要を参照ください。
- 攻防戦の象徴としてのページへのリンク