支局設置の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 04:00 UTC 版)
「日本テレビ那覇支局」の記事における「支局設置の背景」の解説
日本テレビでは、沖縄がアメリカ合衆国の統治下にあった1961年から、本土(東京都)出身の琉球新報社会部記者(当時)・森口豁(かつ)に「沖縄通信員」として沖縄全域の取材を委託。森口は、1963年から「沖縄特派員」として日本テレビへ正式に移籍すると、沖縄の本土復帰(1972年5月15日)に向けた動きを取材しながらドキュメンタリーの制作を始めた。1974年に日本テレビ本社の報道局へ異動してからも、東京と沖縄県内を頻繁に往復しながら、沖縄関連のドキュメンタリー制作を継続。沖縄特派員時代から1990年に退社するまで、通算で28本制作した。 森口がフリージャーナリストへ転身してから述懐したところによれば、1965年に日本国内閣総理大臣(当時)の佐藤栄作が沖縄を訪れるまでは、在日米軍関連の事件や事故に関するリポートを日本テレビへ送っても、「本土メディアの関心が低かったので、『ニュース』として扱ってもらえなかった」という。しかし、佐藤の訪問を境に沖縄の本土復帰の機運が高まったため、日本テレビ本社の報道局から「沖縄のニュースを何でも(良いから)送ってくれ」とのリクエストが相次ぐようになったとされる。
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