播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故
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「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の記事における「播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故」の解説
1959年(昭和34年)4月6日 4時45分ごろ 播但線生野 - 長谷間の真名谷トンネル北側(生野駅より長谷方約4 km)で、福知山発溝口行きの臨時回送上り8630列車(7両編成)が脱線転覆し、蒸気機関車 (C54 5) と前部3両が大破、福知山鉄道管理局豊岡機関区所属の機関士と機関助手の2人が即死した。機関車はトンネル内に頭を突っ込み横転、1両目は崖に乗り上げ、2両目は下腹を見せて転覆、その上に3両目が乗り上げたため、生野 - 寺前間が不通となった。C54 5も原形を留めぬほど大破し、その後廃車、解体処分された。 この時、機関車は逆向き運転をしており、炭水車側からトンネル側壁に衝突したため、運転台は炭水車に押しつぶされた状態になっており、乗務員の遺体収容は凄惨な状態だったという。原因としては、生野駅手前(新井駅側)にある生野トンネル (614.73 m) が、播但線において難所とされている生野峠から続く25パーミル (‰) という上り勾配で、かつ、開口面積が狭いため、通過の際に乗務員が煤煙(ばいえん)により意識を失い、登坂のために加減弁が引かれた状態のまま下り勾配を駆け下りたこととされている。 この事故の後、播但線の蒸気機関車乗務員に対し、非常用のガスマスクが支給され、翌年には生野峠越え用補機として、当時最新鋭のDF50形ディーゼル機関車が配備されることとなった。 現場の線路脇に、遺族らが建立した慰霊碑が残されている(兵庫県神崎郡神河町渕地区)。外部リンク:『銀のみち 鉄の路 ―1906 - 2006 播但線全通100年』 3. 弔魂碑 - ウェイバックマシン(2009年3月19日アーカイブ分)(神戸新聞)
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