振遠隊の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/17 13:39 UTC 版)
総員300人以上の隊員はイギリス式の教練を受け、筒袖に袴、両刀を腰に差し、ライフル銃を持ち、韮山笠をかぶった西洋式の軍隊に編成された。 慶応4年(1868年)、島原藩・大村藩・平戸藩・佐賀藩・福岡藩・秋月藩の諸藩兵が奥羽に出征する際、振遠隊の面々はその軍に参加することを沢総督に自ら願い出た。 振遠隊は、7月19日に長崎港からイギリス船フィロン号に乗り組み、海路で秋田に上陸。同月24日に秋田領舟川に到着し、26日に勤王派の秋田城下に入り、角間川の戦いに臨み、庄内藩の酒井忠篤の軍と戦ったものの敗走した。その後、南部藩降伏の報を受けて、9月29日南部藩雫石に転戦し雫石・橋場口の戦いを起こした。10月2日には盛岡城へ入った。 戦功を賞された振遠隊は、10月19日に凱旋の途につき、仙台・福島・宇都宮を経て12月12日に京都に入った。そして御所で酒肴を下賜された後、大坂から神戸に出て16日にロシア船コレア号に乗船、12月20日長崎に帰還した。戦死13名、病死4名、負傷13名という犠牲があった。 この後、明治5年(1872年)に隊は解散した。
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