指揮系統・作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
宋の軍隊は五代以来の習慣として、枢密院を軍事の最高機構として皇帝に直属させ、その長官である枢密使と副使は文官が担ったが、その下僚の枢密院都承旨や検詳官、詳覆官、計議官、編修官などは主に武官から補充される場合が多かった。枢密使の地位は宰相に次いで非常に高く、こうして宋では文武の両権を官僚である士大夫達が握っていた。ただし、南宋前期(孝宗)になると閤門舎人・知閣門事など武官が任じられる皇帝側近の地位が設けられ、南宋後期(寧宗)になると宰相が枢密使を兼ねるようになり、文官における文武の二分制も消滅した。 また、こうして枢密院は宋の軍事全般を管理したが、禁軍の統帥権はなく、それらは皇帝の下に三衙と呼ばれる殿前司(近衛軍)、侍衛馬軍司(騎馬軍)、侍衛歩軍司(歩兵軍)の三部署がそれぞれ独立して統率していた。これらの長官は都指揮使と呼ばれ、侍衛馬軍指揮使と侍衛歩軍指揮使は、それぞれ廂軍の兵士を束ねる権限を名目上は持っていた。 ただし、南宋代になると、御営司や五代帥、各制置司が各地域の軍を指揮するようになり、三衙の権限は大幅に低下した。 一方で、軍隊に適用する特別な法規(軍法)に関しては、唐代の『太白陰経』と宋代の『武経総要』に引用された軍法を比較すると、後者の方がより緻密で国家による軍隊・兵士の統制の意思をより強く出されたものになっていた。
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