手打村の成立から町村制施行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 23:44 UTC 版)
「下甑町手打」の記事における「手打村の成立から町村制施行まで」の解説
手打という地名は江戸時代より見え、薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちであった。村高は「三州御治世要覧」では973石余、「旧高旧領取調帳」では933石余であった。伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によると現在の手打の区域には手打村172戸、下甑村28戸、浜之市浦219戸があったと記載されている。 甑島郷の地頭の居館である地頭仮屋は郷内に3か所設置されていたが、そのうちの1つが手打村(現在の薩摩川内市役所甑島振興局下甑支所の場所)に置かれていた。また、現在の手打港の南にある津口鼻には遠見番所及び津口番所が設置されていたほか、西部には薩摩藩の直営の牧場である「下甑野牧」(1709年廃止)が置かれていた。 江戸時代には鎖国が行われていたが、ポルトガル人やインド人などがキリスト教の布教を目的に来日する途上に小串海岸に漂着し、現在では南蛮洞窟と呼ばれる洞窟に暮らしていたといい、のちに村人に発見され長崎送りとなっている。 明治時代になると手打に小学校や警察署の分署が置かれた。1884年(明治17年)には下甑島の長濱村、青瀬村、片之浦村、瀬々之浦村、藺牟田村、手打村を管轄する戸長役場が手打村に設置された。
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