戯画家
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ナダールはこの後、戯画家として活動することになる。「Le Corsaire-Satan」への寄稿をきっかけにナダールは石版画へと転向する。フランス2月革命前夜の1848年初頭に風刺新聞『ル・シャリヴァリ』(Le Charivari)の風刺画家となった。 1848年3月30日、ナダールは兄とともにナダールスキーの偽名を使ってポーランドに渡り、当地の革命を助けようとしたが逮捕され、鉱山での労働という刑を受けた。ナダールは本国フランスへの強制送還の措置を断って自力でパリに帰ろうとし、ザクセン王国領内でプロイセン王国政府関係者により取り調べられるなどの苦難にあいながら帰国した。パリに戻ってすぐ、今度は当時の政府の外務省幹部となっていた出版業者・編集者ピエール・ジュール・エッツェル(Jules Hetzel)によってエージェントの職を打診される。ナダールはポーランドでの苦難にもかかわらずこの話に乗り、プロイセン国境でのロシア軍の動向を調査するために出国した。 1849年には雑誌「ラ・ルヴュー・コミック」(Revue comique)、「ル・ジュルナル・プル・リール」(Petit journal pour rire)などの風刺新聞を発行する。この時期のナダールの仕事には、「ル・ジュルナル・プル・リール」誌のために執筆した風刺画シリーズ(たとえば1852年の『展覧会の風刺』、『魔法のランプ』)が挙げられる。特に、1851年から始めて1854年に完成した、当時の重要人物300人以上を描いた風刺肖像画シリーズ『パンテオン・ナダール』はナダールの名声を高めた。
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