恵奈郡から恵那郡へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:09 UTC 版)
905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により 藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は 藤原忠平が編纂に当たった延喜式には恵奈郡と書かれており、平安時代中期の和名類聚抄、拾芥抄にも恵奈と書かれている。和名類聚抄では恵奈郡六郷に淡気(たむけ)・安岐(あぎ)・絵上(えなのかみ)・絵下(えなのしも)・坂本(さかもと)・竹折(たけおり)が挙げられており、この頃の郡域は現在の恵那市(飯地・笠置を除く)・中津川市(加子母北部を除く)・瑞浪市の陶地区および現在の長野県木曽郡全域であったと考えられる。また延喜式には中川神社、坂本神社、恵那神社の三社が記されている。江戸時代の 1651年(慶安4年)に完成した正保国絵図には恵那郡と書かれているが、 元禄以後にまた恵奈郡に戻された。明治になって恵那郡という表記に定められた。 奈良県の飛鳥池遺跡から見付かった677年12月(天武天皇6年)の木簡に「土岐評恵奈五十造阿利麻」とあることから(「評」は「郡」の意味)、この木簡の書かれた677年の時点では恵奈郡がまだ成立していなかったことが明らかであり、同郡の成立は8世紀初め頃と推定される。 750年(天平勝宝2年)4月22日 美濃国司解(東南院文書)に「恵奈郡絵下郷」とあり。
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