恒吉・百引・大崎方面とは? わかりやすく解説

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恒吉・百引・大崎方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)

西南戦争」の記事における「恒吉・百引・大崎方面」の解説

7月7日振武隊大隊長中島健彦、同監軍島清国分より恒吉に到着した。このとき征討軍は百引・市成に進駐していたので、薩軍振武隊14個中隊を派遣しこの方面への攻撃決定した振武隊夜に恒吉を出発し8日に百引に到着した。ここで三方面から征討軍を抜刀戦術襲撃した。不意を突かれ征討軍は二川・高隈方面まで敗走した。この戦いで薩軍死傷者が8名ほどであったのに対し征討軍の死傷者95名ほどで、その上大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数軍需品奪われた。一説によると、7月8日結集した薩軍兵力は、約5,000人に上ったといわれる一方越山別府九郎率いる市成口牽制奇兵隊振武隊加治木隊も8日に市成に到着した越山らが兵を三方面に分けて進撃したのに対し征討軍は阜上からこれ砲撃し戦闘開始された。戦闘激しいものとなり、夕方征討軍は民家火を放ち二川退却した薩軍も本営の指令で兵を恒吉に引き揚げ、振武十一番隊を編隊し直し奇兵隊一・二中隊とした。 大崎屯集しているとの情報得た先発奇兵隊7月11日征討軍を奇襲したが、二番隊長が戦死するほどの苦戦をした。そこで、勝敗決しないうちに原・井退却した一方後発振武隊進路誤り、荒佐の征討軍と遭遇し半日渡り交戦したが、結局大崎付近まで退却した12日原・井奇兵隊大崎進撃したが、荒佐野征討軍はこの動き察知し大崎にて両軍激突した当初戦況薩軍にとって不利な方向に傾いていたが、大崎振武隊合流し征討軍に快勝した。しかし、末吉方面危急の状態に陥ったので、この夜、村田新八各隊引き揚げ末吉赴くように指示した

※この「恒吉・百引・大崎方面」の解説は、「西南戦争」の解説の一部です。
「恒吉・百引・大崎方面」を含む「西南戦争」の記事については、「西南戦争」の概要を参照ください。

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