御花畠の成立と柳川藩の奥機能の移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/11 08:29 UTC 版)
「立花氏庭園」の記事における「御花畠の成立と柳川藩の奥機能の移転」の解説
通説では「当地が『花畠』という地名であったことから、柳川の人々から御花と呼ばれるようになる」と言われることが多いが、元文3年(1738年)以前の一次資料に「御花畠」の名は登場しない。 藩主立花貞俶の治世中の元文2年(1737年)に国元での奥(藩主側室や子息、女中の居住地)として使われていた柳川城二の丸御殿が手狭になったので、奥の移転が計画される。貞俶が花見や相撲見物に使っていた三の丸の茂庵小路御茶屋でもやはり手狭だったので、より広いかつての鑑虎の別邸が移転地に決定する。元文3年(1738年)には、かつての鑑虎の別邸に二の丸座敷を直接移築するなどの普請が加えられ、旧暦7月7日に藩主子女や女中が二の丸より引越し、御花畠と命名された。 こうして、御花畠は柳川藩の国元の奥として明治時代まで機能するようになる。なお、藩主の国元での居住は柳川藩本丸御殿で、藩主は御花畠と柳川城を行き来していたが、嘉永3年(1850年)以降は御花畠に居住しており、事実上柳川藩主家の国元の私宅となっている。 柳川藩の奥が花畠に移転したこともあり、柳河藩の役職には「花畑路地役」(城地路地役が兼務)や「花畑目付」、「花畑役人」という役職も置かれ、「列並諸役人帳」(文久3年頃作成だが、しばらく実務に使っていたと推定されている)などの柳川藩史料で確認できる。同時に藩政史料では「花畑」と表記されることもあったことが分かる。
※この「御花畠の成立と柳川藩の奥機能の移転」の解説は、「立花氏庭園」の解説の一部です。
「御花畠の成立と柳川藩の奥機能の移転」を含む「立花氏庭園」の記事については、「立花氏庭園」の概要を参照ください。
- 御花畠の成立と柳川藩の奥機能の移転のページへのリンク