彭晃討伐
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387年10月、穀物の価格が跳ね上がり、一斗が五百にまで高騰した。その為、人々は互いに食い合うような惨状に陥り、大半の民が亡くなったという。 同月、西平郡太守康寧は匈奴王を自称し、湟河郡太守強禧を殺害して呂光に反旗を翻した。呂光は幾度も討伐軍を差し向けたが、勝利出来なかった。 同月、張掖郡太守彭晃もまた反乱を起こし、将軍徐炅もこれに呼応しようとした。呂光は軍を派遣して徐炅を撃つと、徐炅は彭晃の下に逃れた。彭晃は東の康寧・西の王穆と結託し姑臧への侵攻を目論むと、呂光は軍議を開いて彭晃討伐を議した。諸将はみな「今、康寧が南におり、兵を阻んで隙を伺っております。もし大駕が西行すれば、康寧は必ずや虚に乗じて嶺左に出撃しましょう。彭晃・王穆を討伐出来ぬうちに康寧が至れば、進退をどうすべきか狼狽し、軍勢は必ずや大危となりましょう」と反対した。これに呂光は「事勢を見れば、確かに卿らの言う通りであろう。しかし、今赴かなかったならば、ただ座してその到来を待つばかりとなる。彭晃と王穆は互いに唇歯の関係にあり、康寧もまた同悪であるから援護し合うであろう。もし三寇が兵を連ねれば、東西から攻め込まれ、城外は我が有する領土では無くなってしまい、大事は去ってしまおう。今、彭晃の叛逆は始まったばかりであり、康寧と王穆との連携も密になっていない。これを急襲すれば、取る事など容易い事だ。ここは隆替の命運を分けるだ。卿らに再び言う事は無い」と述べ、自ら歩兵・騎兵3万を率いて日夜問わず彭晃の下へ急行した。そして到達するや2旬に渡り攻撃を続けると、彭晃の将軍寇顗は門を開いて呂光軍を迎え入れた。こうして呂光は城を占領すると、彭晃を誅殺した。
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