彭晃討伐とは? わかりやすく解説

彭晃討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)

呂光」の記事における「彭晃討伐」の解説

387年10月穀物価格跳ね上がり一斗五百にまで高騰した。その為、人々互いに食い合うような惨状に陥り、大半の民が亡くなったという。 同月西平郡太守康寧匈奴王を自称し、湟河郡太守強禧を殺害して呂光反旗を翻した呂光幾度も討伐軍を差し向けたが、勝利出来なかった。 同月張掖郡太守彭晃もまた反乱起こし将軍徐炅もこれに呼応しようとした呂光は軍を派遣して徐炅を撃つと、徐炅は彭晃の下に逃れた。彭晃は東の康寧・西の王穆と結託し姑臧への侵攻目論むと、呂光軍議開いて彭晃討伐を議した諸将はみな「今、康寧が南におり、兵を阻んで隙を伺っております。もし大駕西行すれば、康寧必ずや虚に乗じて嶺左に出撃ましょう。彭晃・王穆を討伐出来ぬうちに康寧至れば、進退どうすべきか狼狽し軍勢必ずや大危となりましょう」と反対した。これに呂光は「事勢を見れば確かに卿らの言う通りであろう。しかし、今赴かなかったならば、ただ座してその到来を待つばかりとなる。彭晃と王穆は互いに唇歯の関係にあり、康寧もまた同悪であるから援護し合うであろう。もし三寇が兵を連ねれば、東西から攻め込まれ城外我が有する領土では無くなってしまい、大事は去ってしまおう。今、彭晃の叛逆始まったばかりであり、康寧と王穆との連携密になっていない。これを急襲すれば、取る事など容易い事だ。ここは隆替命運分けるだ。卿らに再び言う事は無い」と述べ、自ら歩兵騎兵3率いて日夜問わず彭晃の下へ急行した。そして到達するや2旬に渡り攻撃続けると、彭晃の将軍寇顗は門を開いて呂光軍を迎え入れた。こうして呂光は城を占領すると、彭晃を誅殺した。

※この「彭晃討伐」の解説は、「呂光」の解説の一部です。
「彭晃討伐」を含む「呂光」の記事については、「呂光」の概要を参照ください。

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