引退後・年寄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:20 UTC 版)
引退後は現役末期から不仲だった師匠の下を離れ、楯山の株を譲られた清國の伊勢ヶ濱部屋で後進の指導に当たっていたが、1997年5月場所中に同じ一門の朝日山親方(元小結・若二瀬)が急逝。師匠代理の後に年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を急遽継承した(楯山の株は2008年に玉春日に売却するまで引き続き所有)。暫く関取が不在で低迷していた時期もあったが、先代からの弟子である大真鶴が幕内まで昇進した。子飼いの関取としては鬼嵐を育てた。 年寄としては1980年から審判委員に就任し、2009年1月場所まで務めた。その後、2011年4月から再び審判委員となった。元大関でありながら、師匠と同様に出世欲があまりないためか、長らく役員や役員待遇の経験がなく、役員ではない親方が組織する年寄会の会長を務めていたが、2012年1月場所後の役員改選で役員待遇に抜擢され、審判部副部長に就任。2014年3月場所後の改選でも、停年(2015年3月場所限り)まで1年しか残っていないながら引き続き審判部副部長を務めた(2015年1月場所まで)。2015年1月場所後に、自身が停年間際となったことと後継者が不在であることを理由に同場所限りで朝日山部屋を閉鎖し、桐山親方(元小結・黒瀬川)や三段目以下の力士ら計8人が伊勢ヶ濱部屋へ転籍となった。2015年3月場所千秋楽をもって日本相撲協会の停年となったが、前年秋に導入された年寄再雇用制度は辞退する意向を示し、そのまま退職した。朝日山の名跡については、退職前の2014年8月には既に元関脇の琴錦(当時は借株で中村を襲名していた)へ譲渡する話になっており、その後実際に元琴錦が襲名して二所ノ関一門で朝日山部屋が再興されると、元琴錦に対して自身と同じ伊勢ヶ濱一門への移籍を勧めて、2017年1月13日付で新・朝日山部屋は伊勢ヶ濱一門の所属になった。
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