建築家修業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/12 13:29 UTC 版)
「チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル」の記事における「建築家修業」の解説
・建築家ボアンヴィルは父がフランスで布教活動していたときに生まれ、上には姉のレイチェル、下には弟のウィリアムがいた。兄弟は父が多数の教会建設に奔走している姿を見て、建築家を志した。学校に行く傍ら、いくつかの設計事務所で建築修業を行い、1868年頃、パリで活動していたイギリス人建築家ウィリアム・ヘンリー・ホワイトの事務所に助手として入ることになった。この時期、ホワイトはノルマンディー地方のビジー城 Château de Bizy やマルチンバスト城 Château de Martinvast の改修工事を手がけていた。しかし、1870年に普仏戦争が勃発すると、ホワイトもボアンヴィルの家族も海峡を渡りイギリスに戻った。ボアンヴィルはパリに残り、同戦争に従軍し、さらにパリ・コミューンに参加した。コミューンから解放されると、家族の待つイギリスに戻った。 ・父親はウェストミンスター宣言を行いイギリス国教会に入り、キングトン・アポン・テムズ (Kingston upon Thames) の教会牧師を務めた。ボアンヴィルの方はトーマス・カンスタブルの紹介で、グラスゴーの建築家キャンベル・ダグラスの事務所に助手として入った。カンスタブルとダグラスは明治政府に勤めるコリン・アレクサンダー・マクヴェインと親戚関係にあり、1872年に、ボアンヴィルに工部省建築家のポストを紹介した。 ・ダグラス事務所には1年半ほどしかいなかったが、そこでエア出身のアグネス・コーワンと出会い、結婚の約束をした。
※この「建築家修業」の解説は、「チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル」の解説の一部です。
「建築家修業」を含む「チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル」の記事については、「チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル」の概要を参照ください。
- 建築家修業のページへのリンク