廈門事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 09:16 UTC 版)
台湾を領有していた日本は、かねてより対岸の福建での勢力拡大を狙っていた。しかし日本政府は廈門への軍隊の派遣に列国がどのような態度をしめすか計りかねており、派遣の口実もつかみかね、行動に出られずにいた。その中で8月10日に廈門占領を閣議決定する。そして8月15日に列強によって北京公使館区域が救出され義和団事件の帰趨が見えだしたのちの8月20日、首相山縣有朋は、福建・浙江両省を軍事上も通商上も日本の勢力範囲とする「南進経営」論の意見書を提出していた。8月24日早朝廈門市市街地の東本願寺布教所が焼失したため、台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平が治安維持の名目で海軍陸戦隊を上陸させ廈門を軍事占領させようとした。この放火自体も謀略性の強いものであったとされる。その後、廈門駐在日本領事からの出兵要請により、台湾駐屯軍事部隊を廈門に向けて出発させた。
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