広南阮氏との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 22:46 UTC 版)
景興32年(1771年)、西山(タイソン、現在のビンディン省)出身の阮岳(中国語版)・阮侶(中国語版)・阮恵の三兄弟(阮姓だが元は胡季犛と同じ胡姓で広南阮氏とは無縁)が摂政張福巒の排除を掲げて反乱を起こした。阮岳の妻の雅都(ベトナム語版)は山岳民族の巴拿族出身であり、反乱の初期は多くの山岳民族が阮岳を支えた。景興34年(1773年)には歸仁(現在のクイニョン)を占拠。さらに北上し広義・広南から広南阮氏を駆逐した。 これを好機と見た東京鄭氏の鄭森は軍を大挙南下させ、景興35年(1774年)には広南阮氏の本拠地富春(英語版)(現在のフエ)を攻略した。 西山軍は広南で東京鄭氏と対峙したが、広南阮氏と鄭氏の両者を敵に回す愚を避けて鄭氏に服従の意を示し、後黎朝より「広南鎮守宣撫大使」に任じられると更に南部に軍を進め、景興37年(1776年)には嘉定(現在のホーチミン市)に侵攻。阮福淳ら広南阮氏の多くを殺害したが、この時に一族の阮福暎だけは取り逃がした。 景興29年(1778年)、阮岳は歸仁の皇帝城(ベトナム語版)で西山王を名乗った。
※この「広南阮氏との戦い」の解説は、「西山朝」の解説の一部です。
「広南阮氏との戦い」を含む「西山朝」の記事については、「西山朝」の概要を参照ください。
- 広南阮氏との戦いのページへのリンク