幽斎大三原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 05:22 UTC 版)
細川幽斎の愛刀だった三原派の脇差。無銘、大磨上。厳密には、三原正家の作か確実ではなく、高瀬羽皐編『刀剣と歴史』誌が、三原派の名刀なのだから、大方、正家のものであろう、と当て推量したものである。同じく「大三原」と呼ばれる名刀に、伝正広作「名物大三原」(『享保名物帳』所載、重要文化財)があるが、それとは別のもの。脇差だが、刃渡りが二尺(約60.6cm)近く、ほぼ打刀に相当する非常に大きなサイズであり、そこから「大三原」の名が付いたのではないかとも言われる。 幽斎の後、嫡子の細川忠興に渡った(『細川忠興公年譜』)。忠興は幽斎大三原を愛用するあまり、嫡子の忠利が所望しても決して手放そうとしなかった。ある年、二代将軍徳川秀忠は、忠興・忠利父子を伴として浅草川に水浴に行き、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った。忠興も、水浴びとなれば、さすがに愛刀の大三原を腰から外さざるを得ない。ところが、忠興より先に水浴びを終えた秀忠は、実は父子の事情を知っており、大三原を手に取ると、忠利に気を利かせて「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍が仲介しているのだから、)越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、勝手に大三原を忠利に与えてしまった。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという。 この後、忠利と弟の立孝の家系で譲り合いになる。まず、ある時、忠利が立孝に譲った。その後、寛永20年(1643年)1月8日、忠興の嫡孫光尚に初の男子である綱利が産まれると、出産祝いに立孝が光尚に贈呈した。しかし、光尚は1649年に早逝したので、このとき、立孝の嫡子である宇土藩主行孝に贈呈された。 その後は、宇土藩細川氏の重代の家宝として継承された。現在は熊本県出水神社が所蔵し、熊本県立美術館に寄託されている。
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