平安中後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:02 UTC 版)
平安時代中期を過ぎると、律令制の弛緩に伴い、国家の公的な交通に代わり、より現実的な必要に伴う交通が行われるようになったと考えられている。更級日記には、1020年秋に、著者菅原孝標女の父の上総国への赴任が終わり、東海道を通って京都に帰る道程が記されているが、熱田から西へは東海道ではなく、濃尾平野北西部の墨俣、東山道の不破関を通ったとあり、当時の事実上の交通状況が窺える。 陸奥国の国司の赴任の経路に東山道ではなく東海道を用い駿河国を通ったことを、駿河国司が中央に訴え出ている。
※この「平安中後期」の解説は、「東海道」の解説の一部です。
「平安中後期」を含む「東海道」の記事については、「東海道」の概要を参照ください。
- 平安中・後期のページへのリンク