帝としての事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 01:55 UTC 版)
『史記』「五帝本紀」によれば、嚳の次子として生まれ、嚳の後を継いだ兄の死後帝となった。「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれる。黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った。 羲氏の羲仲と羲叔、和氏の和仲と和叔に命じ、天文を観察して暦を作らせた。一年を366日とし、3年に1度閏月をおいた。 堯は大洪水を憂え、臣下の四岳に誰に治めさせるかを問うた。みなが鯀を推薦した。堯は「鯀は(帝の)命に背き、一族を損なっている」と反対したが、四岳は試しに使い、だめなら止めればよいと言った。そこで鯀を用いたが、9年たっても成果がなかった。 『十八史略』によれば平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。 別の書物での堯の伝説として、羿(羿の字は羽の下に廾)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。堯は弓の名人である羿に何とかして来いと命令すると、羿は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。この時太陽の中には三本足の烏がいて(八咫烏)、黒点を謂わんとするものであるという。
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