巨人の1位指名を拒否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 19:48 UTC 版)
「小林秀一 (野球)」の記事における「巨人の1位指名を拒否」の解説
1973年のプロ野球ドラフト会議で、読売ジャイアンツから1位指名を受ける。大学同期の迫丸も同じく4位で指名を受け後に入団。迷っていたところ、入団交渉のため名古屋のホテルで会った同郷の川上哲治監督と対面した際に「(入社が内定している)熊谷組は本業の仕事があり次に野球だが、うちは野球で君を欲しいと思っている」と言われたが、仕事として野球を選んだわけではないと考えていた小林はこの言葉で迷いが消え、断る決心がついたという。小林は巨人からの1位指名を拒否して入団しなかった唯一の選手である。 拒否した背景として、当時はプロ野球経験者が引退後アマチュア指導者に転進する場合、柳川事件などの過去の経緯によるプロアマ規定によって制約が大きく、特に高校生以上の学生野球や社会人野球の指導者になるのが困難だった事も影響している。また50代半ばに受けたインタビューで、プロアマ規定が緩和された今巨人に1位指名されたらどうするかとの問いには「入団していたと思う」と答えている。 小林の入団拒否当時、周囲では「同年3月に起こった湯口事件が影響しているのではないか」という噂が飛び交っていたが、前述の小林の証言等からそれとの関連はないとされる。奇しくも、巨人が小林に用意していた背番号は、前年まで湯口敏彦が着けていた「19」であり、1974年にそれを着けたのは小林秀一と同姓の、同じアンダースロー投手である小林繁(前年は「40」)だった。
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