工業教育
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明治43年(1910年)6月、大竹は東北帝国大学教授兼特許局技師兼米沢高等工業学校長事務取扱を命じられる。大竹の校長就任には米沢出身で、農商務大臣経験者でもある平田東助の推挙があった。米沢高工は第七の高等工業学校で、山形大学工学部の母体となる。当時の米沢は機織業が盛んであったが、大規模工場はなく、また大竹には地域として読書思想に乏しいと感じられた。大竹は7年間の在任中に英語教育の推進、機械導入を図り、また地域に対しては新聞に推奨図書を挙げるなどしている。米沢高工図書館の開設にあたってはその蔵書、雑誌1698冊を寄贈した。 地元との関係は良好であったが、染織科および紡績科廃止案には反対を受け、両科は存続となっている。ただし大竹自身は以前に米沢高工と同種の学校が創立されることへ反対の意思を示していた。当時の地元紙に大竹批判の記事はない。 大正3年(1914年)6月、第八高等工業学校の創立準備委員に任じられ、大正5年(1916年)1月に初代校長に就任する。桐生高等染織学校は群馬大学理工学部の前身であるが、同校は当時の日本で唯一の高等染織学校であった。大竹は最初の入学生34名を前に、「艱難汝を璧にす」の言葉を贈り覚悟を促している。大正6年(1917年)には専任校長となり、引き続き桐生高等染織学校の運営にあたるも、翌7年(1918年)に病を得、自宅で没した。享年58。
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