島の発見と開発の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 07:33 UTC 版)
1543年、スペイン船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている。16世紀後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインのガレオン船航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される。 1876年(明治9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた。その後内務省の所轄となった小笠原諸島に移住が再開された。1889年(明治22年)、田中栄三郎が硫黄島と北硫黄島に上陸し、北硫黄島は土地が肥沃で水も得られる等の報告をした。田中の報告に触発された母島在住の石野平之丞は1896年(明治29年)に北硫黄島に上陸し、小笠原島庁の許可を得て1899年(明治32年)には北硫黄島に移住し開拓を開始した。北硫黄島には東海岸に石野村、北西海岸に西村という二つの集落が形成され、最盛期には約200人の島民が居住し、主にサトウキビ栽培に従事していた。当時の北硫黄島は石野村を中心としてサトウキビ畑が広がっていた。
※この「島の発見と開発の開始」の解説は、「石野遺跡」の解説の一部です。
「島の発見と開発の開始」を含む「石野遺跡」の記事については、「石野遺跡」の概要を参照ください。
- 島の発見と開発の開始のページへのリンク