岡田耕司とは? わかりやすく解説

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岡田耕司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/09 22:43 UTC 版)

岡田 耕司
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市天王寺区[1]
生年月日 (1966-11-04) 1966年11月4日(58歳)
身長
体重
183[1] cm
77[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手[2]内野手[3]外野手[1]
プロ入り 1984年 ドラフト外
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

岡田 耕司(おかだ こうじ、1966年11月4日 - )は、大阪府大阪市天王寺区出身の元プロ野球選手[1]捕手内野手外野手)。右投右打[1]

経歴

出身は大阪市天王寺区だが[1]、プロ入り時点で実家は大阪市住之江区にあった[4]。住之江区の大阪市立加賀屋東小学校大阪市立加賀屋中学校を経て上宮高等学校に入学[5]、野球部監督を務めていた山上烈の下でプレーした[6]。高校時代は3年間で通算打率.343、26本塁打を記録した[6][1]。また高校2年生の時には紅白戦で4打席連続本塁打を記録している[7]

1984年12月14日、近鉄バファローズ外野手としてドラフト外入団した[6]契約金は500万1985年シーズンの年俸は280万円[1][6]もしくは240万円だった[7]背番号59[8][1]。担当スカウトは河西および本堂[6]

近鉄時代

1985年二軍ウエスタン・リーグ公式戦21試合に出場して57打席に立ち、51打数7安打、打率.137、3得点、1本塁打、4打点、0勝利打点、0盗塁、2四球、1死球、11三振の成績を残した[9]。同年は出番こそ少なかったが、時折強打者の片鱗を見せる打球を放っていたと評されている[10]。同年オフには年俸300万円で契約更改した[10]。それ以降、1987年まで支配下選手登録されていた[11]

1986年は外野手から内野手に転向した[12]。同年は二軍公式戦35試合に出場して62打席に立ち、55打数12安打、打率.218、9得点、1本塁打、3打点、0盗塁、3四球、1死球、12三振の成績を残した[13]。また3犠打を記録した[14]

1987年は二軍で10試合に出場し、8打数0安打、打率.000、0本塁打、1打点、0犠打飛、0盗塁、2四死球、2三振の成績を残した[14]。同年オフには現状維持の年俸400万円で契約更改し、内野手から捕手に転向した[4]1988年は支配下選手登録を外れ、練習生[注 1]としての登録になる[20]。同年は一軍(パシフィック・リーグ)だけでなく、二軍でも公式戦出場機会はなかった[14]

1989年は当初、練習生としての登録だった[21]。同年の日向春季キャンプでは一軍昇格を期待されていたが[22]、2月26日に大王谷運動公園野球場(宮崎県日向市)で開催された三星ライオンズとの試合で右膝を痛め、右膝内側側副靭帯挫傷で全治3か月と診断されたことから[23]、支配下選手登録を外れていた[22]。しかし松久保新吾、田口茂樹、福島明弘のアメリカ教育リーグ参加で支配下選手枠が空いたため、再び支配下選手登録されて以降、二軍で五番打者として起用された[22]。同年は最終的に二軍で32試合に出場し、うち7試合で一塁手、17試合で三塁手の守備に就いた[3]。打撃成績は111打席に立ち、102打数27安打、打率.265、11得点[24]、3本塁打、12打点、0犠打飛[14]、3盗塁、8四球、1死球、18三振だった[24]。同年オフには年俸400万円で契約更改した[3]

1990年は二軍で内野手として25試合に出場し[25]、二軍で25試合に出場して50打席に立ち、46打数8安打、打率.174、5得点、3本塁打、11打点、0盗塁、2四球、0死球、12三振の成績を残した[26]。犠打飛2[14]。同年まではファームで代打指名打者として出場することが多く、捕手と外野手を兼任していた[5]。同年11月5日、小川宗直との交換トレード中日ドラゴンズへ移籍することが発表された[27][28]。これは同日に発表された小松崎善久日本ハムファイターズ)と斉藤浩行(中日)の交換トレードとともに、同月1日に開催されたセレクション会議[注 2]をきっかけに決まったトレードであり[27][28]、捕手陣に不安を抱えていた中日と、左の中継ぎ投手の補強を必要としていた近鉄との事情が一致したことによるものである[27]。背番号は69[25]

中日時代

1991年の年俸は450万円[25]。同年は二軍でウエスタン・リーグ公式戦60試合に出場し[2]、178打席、147打数35安打、打率.238、18得点、2本塁打、19打点[31]、5犠打飛[14]、3盗塁、22四球、4死球、40三振の成績を残した[31]。また同年は捕手に再転向することが検討されたが、結局は三塁手で28試合、外野手で4試合守備に就いた一方、捕手として出場することはなかった[2]。同年オフには年俸450万円で契約更改した[2]

1992年は背番号を50に変更し[2]、捕手として勝負することへの抱負を語っていたが[32]、同年からは三塁手に専念した[14]。最終的には二軍で62試合に出場、うち50試合で三塁手として守備に就いた[33]。打撃成績は178打席、155打数36安打、打率.232、26得点、10本塁打、32打点[34]、5犠打飛[14]、4盗塁、13四球、5死球、37三振、16失策の成績だった[34]。同年は規定打席 (243) には到達しなかったものの[35]、10本塁打は南牟礼豊蔵と同数で[36]山崎武司(12本塁打)に次ぐチーム2位だった[33]。なお、本人は同年秋にファームの台湾遠征で本塁打を連発し、表彰を受けて賞金を獲得したことを野球人生の思い出として語っている[37]。同年オフには年俸480万円で契約更改した[33]。一方でプロ入りから同シーズンまでの8年間、一軍公式戦への出場機会は一度もなく[38]1993年6月22日時点では[39]、12球団の在籍6年以上で一軍未出場の野手8人[注 3]の中で最古参の選手となっていた[38]。また同年の黒潮リーグで右膝靭帯を痛め、後に沖縄秋季キャンプで痛みが再発したため、キャンプを途中離脱した[40]

1993年も一軍(セントラル・リーグ)公式戦への出場機会はなく、二軍で30試合に出場して36打席に立ち、32打数6安打、打率.188、4得点、0本塁打、2打点、0盗塁、1四球、2死球、9三振、5失策の成績だった[41]。同年10月13日、球団から戦力外通告を受ける[42]。同時に戦力外通告を言い渡された小野和幸田中富生五十嵐明・南牟礼・早川和夫の5選手は現役続行を希望した一方、岡田は本人の希望から任意引退選手となり[43]、同年11月8日付で任意引退選手として公示された[44][45]

引退後は家業の鋼材販売業を手伝うこととなった[46]

選手としての特徴・人物

パンチ力のある打撃が魅力とされていた[25]。また入団当初はその強打に加え、ベース一周14秒5という俊足、遠投115メートルの強肩も評価されていた[1]

近鉄時代の1989年には、二軍監督滝内弥瑞生から内野手としての将来性を高く評価されており、また二軍打撃コーチ佐々木恭介からも打撃センスを評価されていた一方、守備を課題点として挙げられていた[22]。中日移籍当時は打撃に加え、捕手としては珍しく俊足であることも評価されていた[5]

趣味はボクシング観戦、音楽鑑賞[4]

詳細情報

年度別投手成績

  • 一軍公式戦出場なし

背番号

脚注

注釈

  1. ^ 練習生とは、1965年から1990年にかけてNPB球団が取っていた雇用形態で、支配下選手登録されてはいないが、当該球団のユニフォームを着用して練習に参加できるというものである[15]。NPBでは1990年まで「練習生」や球団職員としてドラフト対象外選手を採用した後、ドラフト指名で獲得するということが行われていた(代表例に伊東勤大豊泰昭など)が、このような行為はドラフト指名を有利に展開する「抜け道」であるとして問題視され、1990年9月7日のプロ野球実行委員会で各球団とも「ドラフト対象外選手といかなる雇用関係も結ばず、またその影響下に置かない」「ドラフト対象外選手の野球活動に関する一切の便宜供与をしない」という2点の申し合わせがなされ、練習生の採用は禁止された[16]。このため、12球団は翌1991年のドラフト会議から原則として新人選手を獲得するにあたり、全てドラフト会議での指名を経なければならなくなった[17]。1991年のドラフト会議では社会人選手のみドラフト外指名が禁止され[18]、翌1992年からはドラフト外獲得は原則として全面禁止となった[19]
  2. ^ 「セレクション会議」とは1990年にプロ野球実行委員会が開催した会議で、各球団が移籍希望選手のリストを持ち寄ってトレードを図るというものである[29]。これ以降1997年まで開催されており、2022年から導入された「現役ドラフト」に近い制度と評されている[30]
  3. ^ 9年目の岡田、7年目の鈴木康博ヤクルトスワローズ外野手)・高見昌宏読売ジャイアンツ〈巨人〉捕手)・名幸一明横浜ベイスターズ捕手)・芹沢裕二(中日捕手)、6年目の吉本文弘(横浜内野手)・上中吉成西武ライオンズ外野手)・藤原清景(近鉄捕手)[38]。なお、高見と上中は後に一軍出場を果たしている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 「'85プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第9巻第3号、日本スポーツ出版社、1985年3月31日、135頁。  - 通巻:第88号。1985年3月号増刊。
  2. ^ a b c d e f 「'92プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第16巻第4号、日本スポーツ出版社、1992年3月31日、129頁。  - 通巻:第162号。1992年3月号増刊。
  3. ^ a b c d 「'90プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第14巻第4号、日本スポーツ出版社、1990年3月31日、111頁。  - 通巻:第138号。1990年3月号増刊。
  4. ^ a b c 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第43巻第9号(通巻:第1688号)、1988年2月29日、97頁「保存版 '88プロ野球全選手写真名鑑」、NDLJP:7909505/49
  5. ^ a b c 『ドラゴンズ'91ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1991年3月6日、105頁。ISBN 4806202371
  6. ^ a b c d e 日刊スポーツ』1984年12月15日付大阪版第13版3頁「近鉄 ドラフト外で上宮・岡田獲得」(大阪日刊スポーツ新聞社
  7. ^ a b 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第40巻第8号(通巻:第1511号)、1985年2月25日、134頁「'85プロ野球写真名鑑 保存版 パシフィックリーグ」、NDLJP:7909327/68
  8. ^ 『日刊スポーツ』1984年12月18日付大阪版第13版2頁「近鉄入団発表 隠れた逸材山崎を発表 3位でも1位男(阪神・島田弟 広島・杉本)には無敗だぜ 箕島に負け知らず」(大阪日刊スポーツ新聞社【内匠】)
  9. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第40巻第58号(通巻:第1561号)、1985年12月23日、127頁「〈付:ファーム公式戦〉'85年 公式戦出場全選手成績 KINTETSU BUFFALOES」、NDLJP:7909377/63
  10. ^ a b c 「'86プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第10巻第3号、日本スポーツ出版社、1986年3月31日、123頁。  - 通巻:第97号。1986年3月号増刊。
  11. ^ 検索結果 | プロ野球在籍者名簿」『NPB.jp 日本野球機構』日本野球機構。2025年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月27日閲覧 - 「プロ野球在籍者名簿」の注意として、1991年の準支配下選手は(準支)と表記して在籍扱いとする一方、練習生は在籍より除く旨が記載されている。
  12. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第41巻第9号(通巻:第1571号)、1986年3月3日、160頁「情報コンテナ 球界〝人事異動〟一覧表」、NDLJP:7909387/81
  13. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第41巻第55号(通巻:第1617号)、1986年12月15日、61頁「プロ野球12球団'86ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人別記録」、NDLJP:7909434/31
  14. ^ a b c d e f g h 『ドラゴンズ'93ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1993年3月16日、79頁。ISBN 4806202584
  15. ^ 小林至 2018, pp. 244–246.
  16. ^ 『中日新聞』1990年9月8日朝刊運動1面25頁「練習生の採用禁止 プロ野球実行委が確認」(中日新聞社)
  17. ^ 『朝日新聞』1991年11月14日東京朝刊解説面5頁「戦力均等化 ドラフト:上(なんでもQ&A)」(朝日新聞東京本社 運動部・上野隆)
  18. ^ 『読売新聞』1991年9月5日東京朝刊スポーツA面19頁「ロッテの千葉移転が正式に決定/プロ野球実行委員会」(読売新聞東京本社)
  19. ^ 『中日新聞』1992年11月21日朝刊運動1面27頁「きょうドラフト会議 “竜の恋人”松井はどこへ 本人「すごく楽しみ」」(中日新聞社)
  20. ^ a b 「'88プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第12巻第4号、日本スポーツ出版社、1988年3月31日、161頁。  - 通巻:第116号。1988年3月号増刊。
  21. ^ a b 「'89プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第13巻第4号、日本スポーツ出版社、1989年3月31日、115頁。  - 通巻:第126号。1989年3月号増刊。
  22. ^ a b c d 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第44巻第44号(通巻:第1789号)、1989年9月18日、103頁「好評連載 ファームパトロール 穴吹義雄 > ウエスタンホットライン」、NDLJP:7909600/52
  23. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第44巻第12号(通巻:第1751号)、1989年3月20日、53頁「近鉄バファローズ」、NDLJP:7909568/27
  24. ^ a b 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第44巻第60号(通巻:第1799号)、1989年12月18日、83頁「記録の手帳 '89プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人別記録 近鉄」、NDLJP:7909616/42
  25. ^ a b c d e 「'91プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第15巻第4号、日本スポーツ出版社、1991年3月31日、71頁。  - 通巻:第150号。1991年3月号増刊。
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  27. ^ a b c 中日スポーツ』1990年11月6日付第5版1頁「小松崎〝里帰り〟 '90オフ中日トレード第1弾 斉藤が日本ハムへ」(中日新聞社)
  28. ^ a b 中日新聞』1990年11月6日朝刊運動1面23頁「小松崎が中日復帰」(中日新聞社
  29. ^ 『中日新聞』1990年4月6日朝刊運動1面25頁「セレクション会議今秋に第2回開催」(中日新聞社)
  30. ^ 『中日新聞』2022年11月22日朝刊特報面24頁「特報 来月、初の「現役ドラフト」 球界活性化なるか? 実施方法に疑問 過去の類似制度は頓挫 「球団やファン 我慢が重要」」(中日新聞社 西田直晃)
  31. ^ a b 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第46巻第55号(通巻:第1916号)、1991年12月16日、93頁「記録の手帳 91年プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人成績 中日ドラゴンズ」、NDLJP:7909733/47
  32. ^ 『ドラゴンズ'92ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1992年3月11日、71頁。ISBN 4806202479
  33. ^ a b c d 「'93プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第17巻第4号、日本スポーツ出版社、1993年3月31日、188頁。  - 通巻:第174号。1993年3月号増刊。
  34. ^ a b 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第47巻第55号(通巻:第1974号)、1992年12月14日、101頁「記録の手帳 92年プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人成績 中日ドラゴンズ」、NDLJP:7909791/51
  35. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第47巻第55号(通巻:第1974号)、1992年12月14日、101頁「記録の手帳 92年プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人成績 中日ドラゴンズ」、NDLJP:7909791/51
  36. ^ 『ドラゴンズ'93ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日ドラゴンズ、大広(企画制作)、中日新聞本社(発売元)、1993年3月16日、109頁。ISBN 4806202584
  37. ^ 日刊スポーツ』1993年12月22日付第7版野球面4頁「サヨナラプロ野球(3)中日編 早川和夫〈外野手・33歳〉トレーニングコーチで復帰だ 生活の金稼ぎながら資格取得」【安藤宏樹】「頑張れ!!第2の人生」(日刊スポーツ新聞社
  38. ^ a b c 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第48巻第29号(通巻:第2006号)、1993年7月12日、44頁、千葉功「記録の手帳 連載1667回 下積み選手たちにエールを送る 今の努力が報われる時が必ずやって来る 明日に向かって打て!そして投げるんだ」、NDLJP:7909823/23
  39. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第48巻第29号(通巻:第2006号)、1993年7月12日、42頁、千葉功「記録の手帳 連載1667回 下積み選手たちにエールを送る 今の努力が報われる時が必ずやって来る 明日に向かって打て!そして投げるんだ」、NDLJP:7909823/22
  40. ^ 『中日スポーツ』1992年10月30日付第5版2頁「Dパトロール 富永、岡田が帰名 痛み訴え通院治療へ」(中日新聞社)
  41. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第48巻第55号(通巻:第2032号)、1993年12月13日、69頁「記録の手帳 93年プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人別記録 中日ドラゴンズ」、NDLJP:7909616/42
  42. ^ 『中日新聞』1993年10月14日朝刊運動2面「プロ野球短信【中日】6選手と契約せず」(中日新聞社)
  43. ^ 中日スポーツ』1993年10月14日付第5版2頁「小野ら6人に「戦力外通告」」(中日新聞社)
  44. ^ 『中日スポーツ』1993年11月9日付第5版2頁「コミッショナー公示(8日)【任意引退】中日 岡田耕司内野手」(中日新聞社)
  45. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第48巻第53号(通巻:第2030号)、1993年11月29日、53頁「12球団週間事件簿 中日ドラゴンズ」、NDLJP:7909847/27
  46. ^ 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、第49巻第3号(通巻:第2038号)、1994年1月24日、113頁「93現役引退選手リスト セ・リーグ」、NDLJP:7909855/57
  47. ^ 「'87プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第11巻第3号、日本スポーツ出版社、1987年3月31日、111頁。  - 通巻:第106号。1987年3月号増刊。
  48. ^ a b 歴代背番号」『中日ドラゴンズ 公式サイト』中日ドラゴンズ。2025年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月27日閲覧 - 「金子歩」と検索して出力されたデータを閲覧。

参考文献

  • 小林至「プロ野球におけるドラフト外で入団した選手が, 人材獲得手段として果たしてきた役割」『スポーツ産業学研究』第28巻第3号、日本スポーツ産業学会、2018年、241-256頁、doi:10.5997/sposun.28.241 

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