岡本太郎の讃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 04:46 UTC 版)
伝統の保存に対して、私は反対の立場にいるものでは決してない。むしろ歴史の遺産の中には口惜しいほど敬意を表せざるを得ないものがいくつもある。しかし、伝統というものは、いつも形骸化の恐れと隣り合わせにいる。それが心配でならない。遺物と遺産は違う。まして有形でなく「無形」のものであってみれば尚更、それは血が通っていなければならない。生きていた人間から、生きんとする人間へとそれは踏襲されてきた筈だから。大草の包刀式は久々の、血の通った伝統のような気がする。たしかにこれはあまり優雅ではない。洗練されてもいないはずだ。しかし生(なま)である。生きている。活きている。多分それは受け継がれたというより生きんが為にここまで来てしまったのであろう。靖国神社では世界平和記念日を祈念して行われた。しかしこの包刀式は、決っして平和を謳歌したのではないだろう。もちろん平和に酔いしれたわけでもない。「願い」である。「祈り」である。ひたすら平和を祈って、たぎるような何か、爆発を秘めた謹厳さ、とでも云おうか、言葉通りそれが大草の「奉禱」であってほしい。儀式としては数少ない血の通った大草流の式次第と、このような伝統事では因襲上、多分、抵抗があったであろう若手伝授の改革と、そして包士らの将来にまずは拍手を贈りたい。 岡本太郎
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